読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

幻想俯瞰飛行

生存記録を兼ねて長文を書くためのブログ。文章読んだり書いたりします。 

近況等、ミステリーナイトと火村シリーズ連載話


 また放置してしまいました!
 少し環境が変わったので忙しかったのもあるし、気持ち的な問題もあり、という感じでした。火村シリーズドラマ感想記事も10話まで土台が出来てるんですが、細かい部分で観返して書き直そうとか原作読み返そうとか思ってる間にあれよあれよとDVD発売まできてしまいましたね。ボックス買ったのでちょくちょく書いていきます。
 よくわからない空気に対抗するために自分に出来ることは言葉で戦うことしかないな、と……。
 あと原作に関する評論文もいくつか用意してます。最近ちょっと作家史的な発見をしてしまったのでまとめて書きたい。有栖川作品以外にも感想を書きたい小説映画等沢山あって困ってます。FEサイファの話もしたいです。文章を書く時間と集中力が欲しい……



 近況としては、今夏もE-pin企画さんのミステリーナイトに参加してまいりました。
ミステリーナイト2016|とり残された学園:ミステリーナイト公式サイト[Mystery Night]
 個人的には4年目の参加になります。前年はまさかの有栖川有栖回(!)であり、参加メンバーも今までになく多かったのですが、残念ながら納得のいく結果にならず悔しい部分があり。今年は4人での参加だったのですが、いつになくスムーズに捜査が進行、犯人もトリックも殆ど納得がいく状態で10分前に提出が終わる快挙で、なんと一緒に参加した後輩が最優秀新人名探偵賞をいただくまでになりました。感涙!
 まさか身内から受賞者が出るとは思っていなかったので本当にびっくりしました。おめでとうございます…… 全員で解いていったので、他のメンバーも数点差くらいだったのだと思いますが、これはもう来年自分自身も入賞狙うしかねえな!? と思ってしまいますね。是非来年こそ有栖川ファンの底力を見せつけたいと思います(笑)

 アダルティな(?)前年とうってかわり、今年は学園を舞台にした物語でした。閉ざされた男子寮に伝承と祟りというめちゃくちゃテンション上がるお膳立て。といっても過去の事件を回想する形なので(ミステリーナイトにはありがちですが)役者さんは割といつもの面子の方もいらっしゃったりしました。
 同行メンバーの間でも話が出ましたが、例年になく「怖い」話だったと思います。話の筋はきっちり謎が解けるミステリでありながら舞台という形でこうもぞわーっとする後味をぶつけてくるのか! と思いました。脚本・演出両面で非常に工夫を感じました。去年のプロジェクションマッピングが凄かったので今年はどうかな、と思っていましたが、全然面白かった!!!

 というわけで、同行してくださった皆さんありがとうございました。お手数おかけしてしまってすみません。来年もやるとしたらもう少しちゃんとやります(反省)
 ところでミステリーナイト大阪の会場って中之島のリーガロイヤルなんですね、中之島のホテルで謎解きなんて『鍵の掛かった男』じゃあないですか。いいなあ大阪!

f:id:h_shibayama:20160818185627j:plain
 ホテルメトロポリタン朝食バイキングといえばこのオムレツ。今年も美味しかったです。
 来年も楽しみにしております。


 ついでに火村シリーズ連載の話。
 ドラマ化で熱が上がったこともあり、リアルタイムで読ませて頂いてます『狩人の悪夢』。単行本待ちの方も多いと思うので、本筋のネタバレにならない程度にちょっと感想を。
 ミステリ部分については伏せるとして、これはかなり火村シリーズの転機になりえる作品になる予感がします。火村シリーズのひとつの転機といえば自分としては『朱色の研究』で、これは1995年という時代にブチ当たった本格ミステリの一つの苦悩と回答の物語だと思っています。今回はそういう時代的な転機とは少し違う、ドラマ化というターニングポイントなのかな、と。

 ドラマ版は観ての通り、原作版では継続していくシリーズものとしての制約がある部分を、1クールドラマという一定の終わりを予定された媒体に転化していくために、「火村英生の謎と決断(≒成長)」という筋を加えられたものでありました(もちろん、原作版にもその要素はあります。現状話を進めにくいだけで)。
 火村英生という探偵役の核とはすなわち「かつて限りなく殺人という罪に接近したが踏みとどまった」「だからこそ一線を超えようとする犯罪者を許さない」部分であり、火村シリーズの思想性である「人は誰しも犯罪者になりうる」(→『46番目の密室』冒頭)はその核に繋がる部分です。火村シリーズに出てくる犯罪者が良くも悪くも特殊な存在でないのは、そういったテーゼに基づくものでしょう。
 ドラマ版はその核に対し一つの思考実験を行いました。それは「火村の眼前に再び他の方法ではどうにもならない悪が顕現したとき、火村は人を殺そうとするのか?」という部分です。ドラマ10話と特別編を通して火村が辿り着いたのは、過去の自分とは異なる道、すなわち犯罪者を生かす道でした。原作でも『女彫刻家の首』(『スイス時計の謎』収録)ラストなど、「犯罪者を生きて法の裁きに引き摺り出す」ことを重視しているのはわかりますが、では過去の再演となったとき、火村は果たしてどんな選択をするのか? というのがポイントだったと思います(これに関しては原作でも気になるところです)。ドラマ版の火村が選んだ道は「過去の自分と同じ轍は踏まない、ただしそこで終わりではなく、自身の『殺意』という怪物には一生を懸けて付き合っていく」というほぼ完璧なアンサーでした。

 この「選択」は火村シリーズの裏テーマの一つでないかと最近考えているので別の機会に文章にしたいのですが、それはさて置いて。そうした火村の「選択」を主軸に据え、さらにまさしく火村の「二択を拒絶する第三の選択」が核となる『ロジカル・デスゲーム』を最終話に持ってくる慧眼には驚かされましたが、では翻って原作はどうか。前述の通り、原作版で火村の闘うべきテーマに対し、ドラマ版は一つの答えを見出しました。物語とはすなわち現実に対する解釈であり、ドラマ版自体が原作版に対する一つのアンサーとなりえる展開といえます。
 自身の突き詰める問いに対し一つの答えが出たことを、有栖川は真摯にも受け止め、更なる答えを返すべく始まったのがこの『狩人の悪夢』ではないか――というのが、自分が受けた印象でした。

 題名から同様の印象を受けた方も多いと思われますが、『狩人』は犯罪者を狩る火村自身のこと、『悪夢』とは殺人の悪夢を思わせる題名からしてクリティカルです(『鍵の掛かった男』が梨田と火村のダブルミーニングであったように、『狩人の悪夢』はナイトメア・ライジングと火村のダブルミーニングになるのでは)。実際に作中で既にその辺に触れられており、更に火村自身の危うさに突っ込んだ話になっているので、個人的には「狩人が獲物を狩るのは目的か手段か=火村にとって目的と手段が逆転してきてないか?」の話になってくるのではないか、と考えています。火村シリーズとしても、ミステリにおける名探偵論としても重要な問いではないでしょうか。
 そう考えて読むと白布施の設定も「『46番目の密室』の真壁の反転かなぁ」と思わされたり。

 直接ドラマ版のネタを拾うこともできただろうに、そうした表面的なやり方でなく(それっぽいのもありますが)核を尊重した形での「答えに対する答え」としての『狩人の悪夢』だとしたら、有栖川はやっぱすげえよなあ……エレガントだなあ……と思います。

原作ファンがドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第六話・第七話を観ました

 こんばんは。相変わらずノロノロ更新のドラマ感想ブログと化しています。
 ドラマといえば、今期は『火村英生の推理』以外にもいろいろ観ております。普段あまりドラマをリアルタイムで観ない人間なのですが、何の因果か昨年末からテレビの前に居座る時間が長くなってしまいました。やっぱりサスペンス・推理モノが多いのですが、演出の違い等較べてみると面白いです。ドラマといえば『シャーロック』の映画を観に行くためにドラマ版3シーズン一気見とかもしました。映画面白かったですね!

 というわけで『火村英生の推理』感想です。相変わらずドラマと原作のネタバレに触れております。今回は前後編なので、二話まとめて。引用の範疇で画像も掲載しつつ感想を追っていきます。


☆6話『朱色の研究(前編)』・7話『朱色の研究(後編)』

 原作は角川書店『朱色の研究』より。

朱色の研究 (角川文庫)

朱色の研究 (角川文庫)


 前の記事で朱色の研究好きと書きましたが、そんな自分が唸らされるとても良い回でした。
 褒めたい部分は沢山あるのですが、延々書き連ねているときりがないので困ります。


 まず、今回のドラマが原作をどう編集したのかという点について、二つのことが言えると思います。
『朱色の研究』を貴島朱美の(成長)物語として再構成した
作品を「夜明け前の殺人」「黄昏岬殺人事件」「真夜中の放火犯」の三つの要素に分け、その相関で物語を進めた


 前者に関して。原作『朱色の研究』におけるキーパーソンであり、事件解決の重要な手がかりを握る朱美をフィーチャーすること自体はある種当然の話なんですが、ドラマ版では彼女をシリーズ通してのレギュラーキャラクターに据えたこともあり、より彼女のパーソナルな部分の話として構成されているように感じます。
 この采配、原作の時点で彼女が好きな自分としては単純に嬉しかったということもありますが、物語自体に一本の確固たる軸を付与すること、また「自分自身の過去のために探偵行為を行う火村が、その過程で(意図的かどうかは置いておいて)救うことのできた人間」にスポットを当てること、そういった面で非常に興味深い選択であったと感じます。後者に関して、ドラマ版の火村は内面の葛藤に注力して描かれているため、より重要性が高くなったのではないでしょうか。

 この物語の中で、貴島朱美という人間に与えられた役割は「トラウマの克服と成長」という精神分析的主題でしょう。過去に遭遇した事件から、夕焼けのオレンジ色に共感覚的な恐怖症を持つ朱美が、事件を経て自身の見たものと向き合い、それが事件の解決に繋がっていく――というのが、原作での切ないながらも前向きなラストシーンに繋がっていく一本のストーリーラインとなります。
 ドラマでは、前フリとして各話で朱美の日常生活とそこに見え隠れするトラウマの片鱗が少しずつ描かれていく構成で、視聴者に関心・感情移入を促す色合いが強くなっていたように思います。ちなみに、ドラマ一話の時点で夕暮れのシーンにはオーバーレイのようにして炎が燃え盛る様子が重ねられており、原作を知らずともじっくりと見ていれば朱美のトラウマの正体にはある程度推測できるようになっています。

f:id:h_shibayama:20160313215629j:plain
©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』一話より

 原作では、この「トラウマの克服と成長」は、朱美が事件の調査を依頼した火村に自身の悪夢について打ち明け、その悪夢を現実の反映と考える火村の推理によって犯人の前に真相が明らかにされる構造です。物語後半、火村が自身もたびたび悪夢に悩まされること、そしてその内容が殺人を犯す夢であることを明かし、朱美からの告白を引き出すシーンは、印象的に感じる方も多かったのではないでしょうか。
しかし、ドラマでは悪夢の話は比較的早い段階でなされ、事件解決の場面に至り、火村は関係者の前で敢えて朱美の悪夢を組み込んだ推理を披露し、関係者たちに否定させることで、逆説的に朱美から悪夢が現実の反映であるという自認を引き出すという戦略をとります。
 荒唐無稽なやり口に見えますが、ドラマ版が「貴島朱美のトラウマの克服と成長」に的を絞って構造を練るなら、より確固たる手法で朱美に過去からの逃避を克服させる必要があったのでしょう。作中で火村と有栖川が「カウンセラー」という比喩を用いていましたが、受け入れがたい過去を自ら認めるように差し向ける、という手法はより精神分析的であるように思えます。
 朱美の成長、という観点から言うと、物語ラストシーンの会話の差異も印象的です。

「どうしてみんな、夕陽がきれいだと言うんでしょう。暗い夜がくる前触れなのに」
 朱美は眩しくてならないというように目を細めながらも、顔をそむけない。
「夕陽は没落の象徴でもあるし、確かに闇の前触れでもあるけれど、それだけでもない」火村は言う。「生まれ変わるために沈むんだから」
 朱美の唇が動く。
 ――生まれ変わるために沈む。
 私は、何かで読んだことを思い出した。
「ねぇ、貴島さん。火星行きのロケットに乗れるようになったら、みんなで出かけませんか? あそこでは、夕焼けは青いんだそうですよ」
有栖川有栖『朱色の研究』文庫版p403)

「貴島君。私は有栖川にカウンセラー失格の烙印を押されたが、聞いてくれるか?
君のオレンジ恐怖症は、実体験の恐怖と、それに対して自分を責める罪の意識が根底にあった。だが今回、君はそれを受け入れることができた。
事件が解決したからって、君の抱えている全てが解決したとは思わない。でも、あの太陽が沈めばまた新しい一日がやってくる。
君にとって、新しい一日が」
「私もいつか、夕陽をきれいだって思える日がきますよね」
(ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第七話)


 自分自身気付かなかった部分ではあるんですが、原作での青い夕焼けのくだりが使われなかった理由について、「ドラマ版の朱美は今まさにトラウマである朱い夕焼けと向かい合おうとしているからではないか?」という感想をおっしゃっている方がいて、ハッと気づかされました。
 原作のラストは「これから過去と向き合っていくための第一歩」のような、朱美が向き合うべき今後の長い道のりを想定させる余韻を残すラストであり、一作完結の長編小説として効果的に演出されていますが、ドラマのラストでの朱美は自分のトラウマとしっかり向き合い、涙を流しながらも立ち向かっていくフェイズにまできているんですよね。
 連ドラという媒体ならではの良い独自演出だな、と思います。ここ、台詞を突き合わせて読んでみると、火村の台詞なんかは原作とドラマで同じ意図を示しているのがわかりますし(ドラマは判りやすく説明的ですね)、それに較べて朱美の受け止め方はだいぶ異なるようにとれます。先の話になりますが、8話での朱美の行動を考えると、この話で彼女は過去を受け入れ成長した、と見せたいのがよくわかると思います。


 後者の三要素について。
 漫画版では「夕陽丘殺人事件」「枯木灘殺人事件」と銘打たれて前後編になっていたように記憶していますが、この作品を評するとき大体の人は「過去と現在の二つの事件が相関して……」という説明をすると思いますし、そういう構造として捉えるものでしょう。
 ドラマ版では前述のとおり朱美を主軸に話を進めるに伴って、朱美のトラウマの一因となった放火事件をクローズアップし、三つの謎として火村・有栖川と対峙させるようになっています。「夜明け前の殺人」「黄昏岬殺人事件」「真夜中の放火犯」というネーミングからわかるように、これらは全て時間軸に紐点けされています。日が落ち夜が訪れやがて夜明けを迎える、というのは、「落陽の後には新しい日がやってくる」というラストシーンの台詞にもかけられているのでしょう。
 また、そもそもこの『朱色の研究』という作品自体が、過去と現在の事件が絡み合う、時間軸を意識した作品であることにも留意したいです。ドラマ版ではより強く「過去と現在が入り混じる」イメージが用いられていたと思います(鍋島と緒方のエピソードなんかもそうですね。過去の無念を現在で晴らす、というリンク。また、このくだりは「探偵は死者の声を聴く」という原作での言及も意識したものではないかと思います)。
 三つの場面が目まぐるしく入れ替わる推理シーンなどは、その最たるものでしょう。このシーンは自分の周りでも好評でした。元ネタを探そうと思えば探せる演出かもしれませんが、要素の組み合わせと意味づけによって非常に独自性の高い演出に仕上がっていたと思うので、その辺に言及しておきます。

 推理披露シーンでは、登場人物を残したまま三つの場面が次々に転換していくつくりです。
 まずは、現実に関係者たちが存在するであろう別荘の一室。

f:id:h_shibayama:20160313215631j:plain
©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』七話より

 次に、事件の再現シーンで使われる黄昏岬。

f:id:h_shibayama:20160313215632j:plain
©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』七話より

 事件を再現するための演出であると同時に、朱美が囚われた過去の象徴でもあります。


 最後に、火村が関係者たちに解説するときに使われる教室。

f:id:h_shibayama:20160313215628j:plain
©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』七話より

 黄昏岬のシーンが朱美の領域だとするとこっちは火村の領域。
 「犯人からの挑戦に応える探偵」という構図で進めるにあたっての演出でしょうか。
 スクリーンに映し出された火事の光景が火村の姿に重なるカットが印象的です。原作でもそうですが、朱美と火村はネーミングからも判るとおり物語構造上対になる存在であり、似た要素を持つ登場人物です(ドラマ版はさらに対比構造が多いですが)。そのへんを意識してるのかな。

 この三者のシーンが目まぐるしく入れ替わることで、過去の事件が現在の事件に浸食してくる構造、また朱美の夢は果たして現実なのか、というくだりの不安定感が巧く描かれています。ただこの演出をやりたかっただけじゃなく、しっかり物語上意味のある根拠のもと使われている、ということでしょう。美術系の人と観てたら「これシュールレアリスムっぽい表現だね」とおっしゃっていて、夢と現実が混濁する感じかなるほどなと。
 多分演出だけだったらこういうやり方をするドラマはいくつもあるのだろうけど、このドラマは割と指針が明白な気がします。モーションタイポグラフィも「本格ミステリドラマをやる上での視聴者への適切な情報開示」の意味合いが強いですね。それ系の演出だと『シャーロック』が引き合いに出されがちなんですけど、あれは主人公であるシャーロックの見ている場面を再現するための演出、という色合いが強いので、意図が違うよね(そういう意味で『シャーロック』っぽいのが今期の『スペシャリスト』ですね。あれも宅間の見ている光景を視聴者に提示する意味合いが強いと思う。火村と関係ないけどおもしろいです)。このドラマと意味合いが近いのは日テレ繋がりになるけど『ST』あたりかな?


 原作でも『朱色の研究』は火村英生という人物造形の核に迫る話ではありましたが、ドラマでもクライマックスに向けて布石を打ってきている感じがしました。例えば小野との犯罪談義。

「コマチさんも、一度目の撲殺が衝動的ならば共感できるでしょう。
できないというならそれは嘘だ。
人間誰しも一瞬の怒りや憎しみ、つまり殺意の種を持っている。それ自体は犯罪ではない。
現に、憎しみをもって藁人形を打ったところで、法では裁けない」
「肯定はしません。だが、殺意を持つこと自体は否定しない。だからこそ、私は実際に殺意を行動に移す人間を許さない」
(ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第七話)

 この火村の台詞自体は至極妥当で、内心は法で裁けないという当たり前の話をしているんですが(内心が裁けてしまうとディストピアSFになるんですよ)、恐らく『46番目の密室』冒頭シーンと同様の意図があると思われます。火村シリーズ自体の「人は誰でも犯罪者になりうる」「犯罪者は特殊な存在でなく、我々と同様の人間」というテーゼの象徴ですね。後の平泉成(すいません役名忘れました)の台詞からも、火村のそのへんの掘り下げがされていてよかったです。刑事ドラマにおける「犯人を追う刑事は犯人と同様の思考をすることが必要」メソッド好きなんですよね……。

「確かに、あんたの言うように、彼の眼の奥には冷たい冷たい光があった。犯罪者と同じような。
しかし、その狂気みたいなもんは、犯人を必死に追いかけるもんにも宿る。
今の鍋島君やあの日の緒方君、そしてあんたの眼にもある。わしはそれを執念と呼んどる」
(ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第七話)

 火村の犯罪捜査にかける情熱を「執念」と評してくれたのは本当に原作ファンとして褒めたたえたい。
 ただテレビドラマという体裁上、殺意を安易に肯定するわけにもいかないですし(笑)、また原作を知らない視聴者へのわかりやすいスタンスの説明になっているのかもしれませんね。あと、小野と火村の立ち位置の違い、考え方の違いは一話から出ていましたが(一話感想でも46番目の密室の話をした気が……)、ここに来て明白化する意味もあったと思います。規範的・倫理的に正しくあろうとする小野と、内心がどうであれ実際の行動を重視する火村の差。
 詳しく言うと原作のネタバレになるので控えますが、最終回へのブラフの意味もありそうです。制作陣としては、火村を「あちら側」に行きそうな存在に見せたいのですから(そして、それをどう裏切るかが最終話の楽しみなんだよな……)。

 前の記事で、ドラマ版火村の「犯罪者は憎むが犯罪を愛する」設定が明瞭でなく指針が見えにくい、という話をしました。しかし、ドラマを追っていて気付いたんですけど、おそらく「この犯罪は美しくない」という台詞自体がブラフというか、「火村が何故そんなことを口にするのか?」という謎として制作側が視聴者に提示したかったものではないか、と。9話予告ではっきり「美しい犯罪などない」と言い切っているあたり、この台詞って「全ての犯罪は美しくなどないものを確認する」ためのものなのではないか、と思えてくるんですよね。
 ドラマから観た人は純粋に「美しい犯罪とはなんだろう」と考えますし、原作を知っている人は「火村が犯罪に対して美しいという視点を持つのか?」と考えるでしょう。おそらくその反応すら想定済みで、「じゃあなぜ火村がこんなセリフを口にするのか、お前たちが当ててみろ」と言われていたのではないでしょうか。……という「キメ台詞ミステリ説」を提唱しつつ、次の話を楽しみにしたいです。


 「夕景モチーフなだけあって各シーンのライティングにものすごい気を遣ってる」とか「香水のくだりは6話ブラフかつ7話真犯人に繋がる要素だし双頭の悪魔リスペクトだしめっちゃ細かいとこ仕込んでくるな」とか他にも言いたいことがめっちゃありますが、この辺にしておきます。
 本当は動機の話にも触れたいんだけど、『朱色の研究』の動機の話はそれだけで記事一つ埋まるから……個人的には、原作のアレは「1995年的なモノ(阪神淡路大震災地下鉄サリン事件、終末論・オカルトブーム)へのミステリ的回答」だと思っているので、そういった説明が難しく時代性もあるマクロの部分よりミクロの人間関係だけに絞ってクリンナップしたのはよかったな、と。今2016年だしな……。
 今度、原作の『朱色の研究』に関する記事も書きたいと思います。大澤真幸を読まざるを得ない。

原作ファンがドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第四話・第五話を観ました

 こんばんは。
 私的なことですが、忙しかったりインフルエンザにかかったりフリースタイルダンジョンをyoutubeで一気見したりしていたので感想を書くのが遅れてしまいました。別に誰に強制されているわけでもないけどとりあえず謝罪。あとフリースタイルダンジョンめっちゃ面白いので観ましょう。日本語即興ラップすげぇ……言葉の力すげぇ……

 というわけでドラマ感想です。相変わらずドラマと原作のネタバレに触れております。


☆4話『ダリの繭』

 原作は角川書店『ダリの繭』より。

ダリの繭 (角川文庫―角川ミステリーコンペティション)

ダリの繭 (角川文庫―角川ミステリーコンペティション)


 はやい(確信)
 原作の『ダリの繭』って、調査→事実判明→調査→事実判明の地道な繰り返しの、ドラマでいえば2サスっぽい構成で、なおかつ登場人物全員が秘密を抱えていてそれが一つ一つ紐解かれていくことで真相に近づいていくというミステリなんですよね(その「登場人物全員謎を抱えている」図式が都市小説的、みたいな話は読書メーターで300回くらいした気がする)。逆に言えば、そういう事件を複雑化させている要因さえとっぱらえばトリック・ロジック・真相は割とシンプルな話なんですよねぇ。
 そしてその根幹のミステリ部分だけやりました、というドラマだった気がする、いい意味でも悪い意味でも。いや、一時間枠でやるならこれが限界だと思います。かといって前後編に分けるほどの話でもないので、すごく微妙な扱い。個人的には満足ですが、足りない人もいるだろうなぁ。アリスのトラウマを話の筋に持ってきたのは割といいなと思いました(でもそれならスイス時計やってほしかったな~)。
 ドラマのテンポといえば、今期なんか割とサスペンスドラマを観てるんですけど作品によるテンポの差ってすごいありますよねぇ。火村英生の推理はハイテンポでズンズン話を進めていくタイプで、スペシャリストとかもそういう感じを受けます。逆に相棒とか科捜研の女みたいな定番シリーズはペース保たれてますよね(話にもよるかな?)。どっちがいい、とかではなく、対象層とかでも違うんでしょうね、面白いな、と思う。

・冒頭
 ドラマでは特に説明はありませんが、原作では火村の誕生日&アリスの新刊出版祝いでした。まあ放送時期からして誕生日ではないもんなぁ。仕方ないね。

「では」
 友人はシャンパンのグラスを目の高さまで上げた。
有栖川有栖の最新の後悔に――」
 私はよく冷えた自分のグラスを取って、彼に言い返す。
「老境にひと足早く近付いた親友に――」

(『ダリの繭』)

 ここすき(かっこいい)

・フロートカプセルは割とあんな感じらしいゾ
http://courrier.jp/news/archives/3544
 ちょっと試してみたい。

・アリスのトラウマ
 という名のサブカル文系ボンクラオタクみんなのトラウマ。
 未だに読むたびに自分のアレコレが蘇ってきてつらくなるやつです。
 引用しようと思ったけどむっちゃ長いので原作読んでという話。この場面で重要なのは「現在は言葉によって飯を食ってる有栖川有栖という人間の根幹に、言葉で相手を救えなかったどころか心を動かすこともできなかったトラウマがある」という部分でしょうね。つらい……
 ドラマでは前回の「事実は小説にしない主義」の引きからここでアリスの物語をやっておいて、視聴者に「この人は何者なのか?」を提示する意味があるんでしょうね。語り手でない分、ドラマでのアリスの人物像はわかりづらくなるわけですから。火村の物語はドラマシリーズ自体のインセンティブになるので、必然的に後半にせざるをえないですしね。

 私の小説。私の繭よ。

 お前らの繭よ……

 あと窪田正孝の演技力が如何なく発揮されているシークエンスでもありました。やっぱりすごいですねこの人!


・謎の少年
 シャングリラ関連人物に恨みのある快楽殺人犯?
「この犯罪は美しくない」模倣といい、物語構造上火村と対になる存在のようですが、それがどう物語に影響してくるか。少年は殺人に悦びを感じているようですが、それがずっと続くのか。火村もまた殺人に際して薄暗い悦びを感じてしまう人物なのか、はたまた対にはなるがその一点で決定的に違うという形で物語を運んでいくのか。今後に期待ですね。
 
・うなされてたら起こしてやろうか
 原作より突っ込んだ話をしますね……
 やっぱりドラマ版は原作とはまた違った場所を目指して走っているのかな、という感触。というか、そうであって欲しい。ドラマはドラマならではの地平が見たい。

・新婚ごっこ
 ノーコメント!ノーコメントです! サイファ祭のサイン会待機列での話はやめろ!
 それより「知っとるか、俺な……」の続きとは……ここがブツ切りなのは意図的なのかミスなのか。

・推理シーン
 今回の火村は煽りよる。
 原作の占い師カチコミシーンを意識した戦術の一つ+優子からのあの一言を引き出すための物語上の演出、更に次回で火村の異常性というか狂気を描く必要があるのでそのための前準備、という意図でしょう。映像で観ると破壊力が高い。

・「楽しいですか?」「こうするしかないんです」
 ブ、ブラジル蝶ーッ!
「こうするしかないんだ」のくだり大好きなんですけど、原作では決定的な矛盾を突かれどこか追い詰められての一言だったのに比べて、ドラマでは自嘲の笑み混じりの自虐的な一言で、ニュアンスは違うんだけど探偵としてのスタンスを表す一言としては共通していて、斎藤工の演技力も含めてここはすごいなあと思った。

「あんたがハンター気取りの名探偵だってことだよ。犯罪者を蝶々みたいにコレクションして喜んでる正義の味方か。刑事でもないのにおせっかいな男だ。権力に飢えた下衆じゃないか。私の知り合いの男はな、あんたのことを化け物だと言ってたよ。天才の譬えじゃない。ただの化け物だ。当事者でもない、警察官でもないのに、犯罪の中に飛び込んできて、犯人を狩り立てて喜ぶなんてこと、まともな神経ではないものな」
 にらみつけられたまま、火村はしばらく黙っていた。が、やがて――
「こうするしかないんだ」

(『ブラジル蝶の謎』収録『ブラジル蝶の謎』)

 優子に「楽しいですか?」と訊かせるくだりは、『モロッコ水晶の謎』を思い出した。

「犯罪学者って、犯罪のことばかり考えているんですか? 研究ですから、そうですね。それはその……暗いというか、気が滅入って、つらくないですか?」
(中略)「世の中にはもっと楽しそうな研究がいくらでもあるだろうに、何故そんな嫌なものばかり見つめるのか、と思うかもしれないね。でも、仕方がないんだ。人は、楽しいことを選ぶんじゃない。選ばれる場合もある」

(『モロッコ水晶の謎』収録『モロッコ水晶の謎』)

 火村が「そういうやり方でしか生きることが出来ない」探偵役、ということを端的に表しているシーンなので、ドラマ版のこの場面とも共通点はあるかな、と。余談ですが犯罪学は楽しいです(実際に犯罪の現場に踏み込んだら楽しくないかもしれない)。

 ドラマ版でいいなあと思ったのが、ラストでアリスが優子にかけたこの台詞。

「鷺尾さん。自分のことを、自分の過去を、否定しないでください。……この間、俺に言ってくれた言葉です。本当に、ほんまに救われました。でも、今のあなたに、かけるべき言葉が見つかりません。また、ずっと考えます」

 これはもちろん自分自身の過去にもかかっている台詞で、だからこそ原作と同等に、もしかしたらそれ以上に重い台詞だな、と思いました。この「ずっと考えます」というのは、つまり自分の過去とも逃げずに向き合い続けるという意味だし、アリスにとって「書き続けます」と同じ意味なんですよね。原作における『スイス時計の謎』での解決を、よりわかりやすい形で表に出した台詞だなあ、と思います。火村にしろアリスにしろ、決して答えの出ない問題を考え続けて、戦い続けなきゃいけない物語なんだよな……


☆5話『ショーウィンドウを砕く』

 原作は角川書店『怪しい店』収録『ショーウィンドウを砕く』より。

怪しい店

怪しい店


 原作からして結構複雑かつハイコンテクストで好きな回なんですけど、ドラマ版も割と好きな内容に仕上がっていて、観ていて楽しかったです。コロンボや古畑を例示するまでもなく、ドラマにおける倒叙はやっぱり臨場感が段違いでエキサイティングですね!

・諸星沙奈江
 原作では、この話は「サイコパス診断でそれっぽい結果を出してしまう(ニアサイコパスっぽい)犯人/その上を行く異常者の探偵」という構図がキモになっている部分がありましたが、ドラマではさらにレクター博士のような存在であるっぽい諸星が加わることによって、その辺に説明が付加されている感じはありましたね。

「あなたはこっち側の人間だ。何故まだそっちにいる?」
「俺は犯罪者が憎い。そこにどんな理由があろうと、理性の淵から落ち、そっち側に行ってしまう犯罪者が」
「それが、少年や理性を持たぬサイコパスでも?」

「こっち側」「そっち側」という概念、というか犯罪者とそれ以外の人間への線引きは原作でも出てくる話で、「彼岸へと飛び立った犯罪者を撃ち落とす」のが火村の信念。だとしたら、そもそもその線引きすらなく、理性の境界など用を為さず殺人を犯すサイコパスに対して、火村英生はどう戦うのか?というのは割と突っ込んだ話をするなぁ、という感想。原作でもその辺はそこまで突っ込まれていない話なので。
 サイコパスって良心や罪悪感、共感能力の欠如したタイプの人間であって、理性がないかどうかっていうのは微妙っすかね……とは思ったけど、まあここでは「己の意のままに殺人を犯すことを是とし、それに対して理性の歯止めを持たない」という定義なんでしょうなぁ。
 ドラマ版の火村のキャラ造型は、その辺の理性/欲望の葛藤がキモになってくるのかな、というのがここに来てようやくつかめるようになってきた気がします。原作でもその要素はありますが、ドラマ版はより強く、はっきりと打ち出されているイメージ。そして、欲望の部分を引き出すのが諸星の存在なんでしょうね。となると、火村はクライマックスで諸星を殺そうとするのかなぁ(PSYCHO-PASS一期かな?)。
 原作の時点で、「火村はもし過去と同様の殺したいと思うような相手に出会ったとき、果たして同様に殺意を抱くか」という疑問は持っていたんで(そして答えは出ていない)、ドラマでその思考実験が見れるなら面白そうだなと思う。

 この話の犯人の動機に対するちゃんとした解釈は原作でもドラマでも出来ていないので(原作の感想で「持てるももへの持たぬものの複雑な感情」的なことは言及した気がしますが、それだけじゃないよね)、言及は控えますが、ことドラマ版に至っては「動機なき殺人」と解釈するのもありかな、と思う。火村とアリスの「人が人を殺す心理はいつの世も変わらない」→「明白な動機だけが殺害理由ではない」という会話のくだりがあったね。
 うーん、ドラマ版だけでなく原作の感想もちゃんと文章にまとめたくなってきたぞ……。

「今日の昼、何を食べましたか?」という火村の問いがこの話の根幹になっており、この質問一つで犯人の行動範囲や金遣い等を割り出し、犯人にかける罠を割り出す……という構成なのですが、ドラマ版では移動方法等わかりやすく他の要素で補足も入ってましたね。

 ドラマ版演出としては、宝くじ=将来への希望の象徴というモチーフが冒頭からうまく使われていて、それゆえにそれを何のためらいもなく破く犯人、というところがゾッとする演出でよかったです。原作からして死ぬほど自分のことしか考えてねぇ犯人だったけど、ドラマ版は狂気が付加されていてよかった。あと、犯人が過去を回想するときの演出が、火村が推理するときの演出に似ていたのは意図したものだったらすごいなぁ、しっかり異常者の論理で対比してあるのかなぁ、と思いました。
 それにしても斎藤工、随分探偵役が板についてきたなぁ。この話はいうなれば異常者VS異常者をやらなくてはいけないわけで、宅麻伸演じる犯人に相対するにふさわしい底知れぬ闇の深さが巧く出ていたように感じます。「クサい芝居要りませんから」以降とか鳥肌立ちました。原作でも犯人に対する火村とアリスの正反対の反応が対になってましたが、ドラマ版でもはっきり差異が描かれていてよかった。なまじアリスが正論で啖呵切った分、原作より虚無感が増す……。
 あと愉良役の人がメチャクチャ可愛くていい感じで世間知らずの美人感出ていてよかった。



 次回は朱色の研究!
 火村シリーズで一番好きな作品なので楽しみです。原作に関するレビューも書きたい。

原作ファンがドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第二話・第三話を観ました

 こんばんは。
 前回、有栖川有栖原作ファン目線のドラマ一話の感想を書いたところ、なんか知らないけどPV数が跳ね上がる事態が発生して若干ビビっております。元々文章を壁打ちするためのブログだったのですが、見ていただけているのなら何よりです。もっとちゃんとした書評やレビューを書ければいいんですけどね。頑張ります……。
 というわけで、元ネタ羅列大会はアレで終わりにする予定だったんですが、ドラマの感想自体は追って書いていこうかな、という気になりました。とりあえずリアルタイム+huluで追っているので、今後も原作ファン目線の感想考察等ちょくちょくブログに書いていこうかと思います。
 相変わらずドラマと原作のネタバレに触れておりますのでご注意を。

☆というわけで二話『異形の客』

 原作は『暗い宿』収録『異形の客』から。

暗い宿 (角川文庫)

暗い宿 (角川文庫)


 作中で火村が苦戦していた暗号は『英国庭園の謎』の表題作から。

英国庭園の謎 (講談社文庫)

英国庭園の謎 (講談社文庫)


 一話の『201号室』といい、他短編のおいしいとこ取りをするなあ、という印象ですが、『英国庭園』は暗号がちゃんと殺人の謎に繋がるお話なので、ドラマから読んでも全然イケるのがニクいです。
 この暗号のシークエンス自体が事件の解決に繋がっていたり、あとは女子学生の会話が醜形恐怖症のくだりに繋がっていたり、伏線の張り方地味にしっかりしてますね。というか今観返しているけどむちゃくちゃ丁寧に伏線張ってあるな被害者宅のレコードとか……
 あと映像の叙述トリックもありますね、冒頭の事件の犯人を相羽とミスリードさせようとしていたりとか。

 話が飛びますが、自分は連ドラ化決定時に「連ドラなら一話か二話で『ブラジル蝶の謎』だろうなぁ」と思っていたことがありまして、その理由が「火村英生の探偵行為に対する追及と回答があるから」だったんですね。「人を殺したいと思ったことがあるから」という行動原理を提示しておいて、それに対するツッコミと掘り下げがあり、その行動原理がどれだけ重いか示されるのが『ブラジル蝶』だと思っていたわけです。
 それに対して、この連ドラでは『異形の客』が同様の効果を発揮していたように思います。終盤の犯人と火村の問答は原作からとても好きなくだりだったのですが、かなり忠実に再現されていました。つまり、ドラマ版でも火村の犯人に対する近親憎悪にも似た複雑な感情は健在である、というのを早い段階でキッチリやってくれたわけですね。

「自首するんじゃないよ」
(中略)「シロなら君はもちろん自首しない。だが、クロだったとしても、自首なんてしなくていい。一人を発作的に刺して死に至らしめ、もう一人を計画的に殺害しながら平然ととぼけられる人間に自首は必要ない。逮捕状を携えた刑事の訪問を受け、手錠を掛けられて引き立てられるのがお似合いなんだ。いずれにせよ、君は自首してはならない」

「正義の味方、か」
(中略)「さぞや忙しいことだろうね。仮面をかぶったまま、大勢の犯罪者が街を歩いているよ。早くみんなひっ捕らえなくちゃね」


 ドラマ版の場合、ただ単純に探偵行為の理由に対する追及と視聴者への説明に留まらず、後者の台詞がシャングリラ十字軍の暗躍にもかかっているのが巧い。一話のシャングリラに関わる小野と火村の会話でも「犯罪者は彼岸の人間ではなく、自分たちとそう大差ない存在である」という原作のテーゼが暗示されていたのは見逃せないところでしょう。
 ついでだから言っておくけど、シャングリラ十字軍はドラマオリジナルじゃないです。原作に存在がある上、『白い兎が逃げる』の後書きで「彼らと火村助教授は今のところすれ違っているが、いつか直接対決をする日がくる予感がしている」と作者が言及しているくらいです。そのへんをドラマで拾っただけでしょう。「原作に女性刑事キャラはいない」と言い張る人といい、多少ググればすぐ間違いが判るようなことを平気で口に出来る自称原作ファン、有栖川有栖原理主義者としては赦せないですね(笑)。多すぎて辟易だよ!
 シャングリラ十字軍が登場する話は今話原作『異形の客』と、『白い兎が逃げる』収録『地下室の処刑』。こちらも地味に秀逸なハウダニットなのでご一読を。ドラマでやるかもしんないしね。

白い兎が逃げる (光文社文庫)

白い兎が逃げる (光文社文庫)



 一話では既視感があるなぁと思っていたタイポグラフィ演出でしたが、この話では醜形恐怖症のくだりで生きていたと思います。もっと認知されている症状かと思ったんですけど、割と「そんな病気あるんだ!」という声を聞きました。となると文字で見ないとよくわからんわけで、ドラマで本格ミステリを全うするための視聴者への情報整理のためのタイポグラフィ演出、という側面はありそうです。

 あと、この話は地味な良改変がちらほらあってスゲーと思いました。
 例えば犯人が被害者を説得した理由。原作では「金が欲しかった被害者を何らかの口実で言いくるめた」と曖昧な言及でしたが、ドラマでは「旅館の関係者の親族である犯人が、金のあてがあると犯人を旅館=殺害現場に引き入れる」ところまできっちり描いていたので(しかも関係なさげに見えた暗号がヒントになっているので巧い作り)、その辺に対して違和感がなくなっていました。
 また、原作では火村と犯人の問答の後、余韻を残す暇もなくバッサリ終わりますが(しかもこの記述だと立件までいけたのかどうかはわからないし、代議士の息子である犯人の犯罪はもみ消されるなりなんなりで不起訴になる可能性もあるんですよねぇ)、ドラマでは犯人の立場が変わったこともあってかきっちりその先まで描かれるんですよね。原作の後味悪さもいいけれど、ドラマの丁寧な描写も評価したいです。

 火村シリーズのいいところの一つに「警察が無能ではなくしっかり現実に近しい地味だが重要な仕事をしていて、そのうえで探偵が警察を全面的に信頼しているわけではなくビジネスライクな共犯関係を築いている」のがあると思っていまして、そういう「本格ミステリを現実社会に近しいフォーマットに落とし込む」リアリティが人気の理由の一つにあるんじゃないかなあと邪推しているのですが、ドラマ今話はそこをしっかり継承してのアレンジだった気がします。
 火村の犯人への指摘は直接的に犯人を逮捕に導くわけではなく、彼の推理に基づく警察の捜査が結果に結実する。探偵ものミステリで阻害されがちな地道な過程が描かれていたのはとても良かったと思います。
 鍋島の「警察は犯罪者を許すわけにはいかない」という決意表明と、それに対して敢えて「はい」と首肯を返す火村。
 ドラマ版独自の「犯罪を愛し、犯罪者を憎む」という正直わかりづらい(直球)キャラクター設定に説明なくここまで来たことは実は不満点の一つだったのですが、ここの受け答えで何か感じることがあって「自首はするな」に繋げたんでしょうか。この流れは後の地道な捜査シーンへと繋がりますし良かったと思います。

 でもやっぱりドラマ火村は信条がわかりにくいよ! 「犯罪は愛するけど犯罪者は憎む」ってどういう心理状況なんだよ! 説明してくれよ! 美しい犯罪ってなんだよ!(哲学)
 もちろんそこもひっくるめて「謎の男」として演出することで、最終話まで続けて観せようとするインセンティブの一つでもあるんでしょうが、やっぱり行動原理がわかりづらくなっていることと「犯罪者を憎む」側面があまり強調されなかったがために「自首するな」という言葉の意味付けが軽いかな、というのはちょっと思った。
 でも、これは最後まで観ないとわかんないですね。製作陣が「この犯罪は美しくない」というキメ台詞にどれだけ意味を持たせているか、そこがキモだと思います。いや他ドラマ化見てる限り何の意味もない可能性もあるけどさ……。

 いろいろ言う輩もいますけど、原作からの改変はいいんですよ。ドラマ作中で筋が通っていれば、むしろ今話の細かい部分のように功を奏する改変もありますし。ただ、ドラマ単体で見て作中できちっと解説がなされる作りになっていてほしいなあ、と強く思うし、その為ならドラマ版オリジナル火村過去回とかやってもいいと思う。だってその方がわかりやすいし。自分が原作を知らないでこのドラマを観るとするなら、そこは「原作でも描かれてないし~」って引き伸ばさないである程度ドラマ内でケリを付けてほしい。
 地の文がないだけアリスの行動原理も判りづらくなっているので、そのぶん初見の人の主人公コンビへの視点合わせが困難になっていないかはちょっと心配です。原作はアリスの語りだから視点合わせやすいんだけどね。そう考えると小野のキャラ付けはニュートラルでありがたいな(ドラマによくある探偵に批判的な刑事ってニュートラルな視点の提供者だと思っているので、個人的には有用だと思う)(原作でももっと火村に批判的な刑事が出てきてええんやで)。

 あと、犯人役の演技がとても良かった。特撮俳優がバンバン出てるらしいということは人伝に聞き及んでいますが、それもテレ朝刑事ドラマ感があっていいですね(日テレだけど)。『科捜研の女』とかね。


☆三話『准教授の身代金』

 原作は『モロッコ水晶の謎』収録『助教授の身代金』。

モロッコ水晶の謎 (講談社文庫)

モロッコ水晶の謎 (講談社文庫)


当時は学校教育法改正前だったので「助教授」表記だったのですね。火村の役職名も作中で「助教授」から「准教授」に変わり、法改正に触れるメタい言及が『妃は船を沈める』にありました。
 作中の暗号は『ペルシャ猫の謎』収録『暗号を撒く男』。短めの暗号モノで、ドラマ版だとちょっと要素を入れ替えてあります。

ペルシャ猫の謎 (講談社文庫)

ペルシャ猫の謎 (講談社文庫)


 一話・二話とも事件の筋書きと謎解き自体は驚くほど原作に忠実だった印象ですが、三話ではロジックの軸をそのままに、ガッツリアレンジを加えてきましたね。構成自体も巧い流れにしたなと思ったんですが、最初から実行犯を敢えて明かすことで視聴者の考えるべき謎を絞り、また倒叙のような雰囲気にミスリードさせてひっくり返す、というのは大胆な改変でありながら、ドラマという媒体で効果の高いものだと思いました。
 一話から観ていて思うのは、ロジックの美しさにもかかっているであろうキメ台詞に象徴されるように、このドラマは「原作のロジック重視をドラマでも大事にしよう」という制作陣の意気込みを強く感じる作りになっているというところ。
 大抵のサスペンスドラマでは犯人を当てることに重きが置かれるので、視聴者は配役から犯人を予測したり(2サスあるある)、制作側も「意外な犯人」に重きを置いて脚本を作ることが多いと思います。ただ、有栖川作品は原作からして「犯人の名前だけ当てられても、痛くも痒くもない」ロジック重視の本格ミステリ。ドラマでもそこを汲んで、「とにかく推理の過程を見せたい!」という印象を受けます。一話からして、容疑者自体は少なくて、カンで犯人を当てるだけならシンプルですもんね。
 それが本格ミステリを読まないテレビドラマ視聴者にどの程度アプローチ出来ているかはわかりませんが(「犯人判りやすすぎだろ」とか言う人はいるんだろうなぁ)、少なくとも努力は感じる。実際にドラマだけ観ている方にその辺を訊いてみても判ってくれる方が結構いるので、功を奏していることを信じたいですね。でもこれはドラマの出来云々以前に、ミステリというジャンルに対する認識問題にもなってくるので闇が深い(笑)。
 今話は実行犯を明かしておくことで、「でもそれだとおかしいぞ、じゃああの脅迫状はなんなんだ?」という疑問を軸にストーリーを引っ張って行った感じで、これは原作の地道な展開をきれいにまとめ上げており効果的に思えました。

 原作で地味に好きなのが捜査一課特殊班(いわゆるSIT、大阪府警だとMAATという略称らしいですね)が地道に誘拐捜査やってるところなんですが(SITが地味な仕事やってるのがとてもいい)、流石にドラマではレギュラー面子でしたね。残念。

 アリスの「事実は小説にしない主義」をここで持ってくるのはいい仕事。犯人との対比も決まりますし、今まで1・2話では漠然としかわからなかった有栖川有栖という人物の人となりがようやく垣間見えるワンシーンでもあります。また、次回が『ダリの繭』というアリスをがっつり掘り下げる回なので、そこに繋げる意図もあるのでしょう。

「いいえ。現実の犯罪とミステリは別物ですから。私は、百パーセントの虚構を書くのが好きなんです」

(『モロッコ水晶の謎』収録『ABCキラー』より)

火村の講義にアリスが潜り込むのは『46番目の密室』冒頭からでしょうか。やたらカレー食ってるのも大学時代のエピソードからですかね。こいつらいつもカレー食ってんな(と本人も『菩提樹荘の殺人』で言っていた気がする)。

ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第一話を観ました

 お久しぶりです。というわけで有栖川有栖ファンとしては外せない連ドラ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』一話『絶叫城殺人事件』を観ました。
 キャスト発表された当初は、斎藤工といえば『相棒』season10の正月SP(相棒ファンなら周知の回ですが何度観ても神回ですね)、窪田正孝といえば『デスノート』、くらいの認識でしたが、「おっ!? コレはアリじゃねーの!?」と思わせてくれる軽快なコンビネーションと丁々発止のやり取りが気持ちいいドラマでしたね。
 演出は最近のミステリドラマにありがちなシャーロックや~~~!これシャーロックや~~~!感が強かったものの、タイポグラフィ演出などはロジックを重視する本格ミステリドラマとしては最大限わかりやすい見せ方を頑張っているように感じました。
 各所で言ってますが、「連ドラとして観てて面白いのは推理より圧倒的に自白の時間」なんですよね。なぜかというと、単純に文字だと何回も読み返して納得できるけど映像だとわかりにくいから、だと個人的には思ってます。なので、綺麗なロジックや驚天動地のトリックより人間ドラマのほうが面白いじゃん、となってしまうわけです。
 その辺に対してこのドラマは、推理の過程の演出での補強、ブラフ犯人の設置、また動機部分の補足等、今の所割といい線いってるんじゃないかな?と感じました。ただ、これはミステリ好きかつ原作既読者の意見なので、違う立場の人が観てどう思うかはわかりません。今のところ周りでは好評なのでこのまま突っ走ってくれ~。


 以下はドラマの感想とか元ネタ回収とか考察とかメモです。
 これはあくまで原作ファンのお遊びであって、小説のドラマ化は原作に忠実であれば面白いわけではなく、また原作の答え合わせとしてドラマを観るというのも面白くないと思います。単体で面白いか、そして原作に手を伸ばしたくなるかどうかが一番重要。なのでわかる人がニヤッとするためのものだと思っていただければ幸いです。
 ネタバレ的な配慮はしておりませんので注意してください。
 ページ数は手許の本からなので旧版・新装版バラバラです。あまり参考にしないほうがいいです。

☆ドラマ冒頭

『暗い宿』収録『201号室の災厄』アレンジ。
 原作ではロックミュージシャンだったポジションをマジシャンに(空中浮遊ネタはそのまま)。
 原作中で火村が披露する仮推理をメイントリック化。
『201号室の災厄』は密室劇であり、この仮推理を犯人に提示すること自体が重要。なので、これをメイン推理にしてしまうといわゆる(?)科学捜査介入問題が浮上してくる。そこで一話冒頭の短い形式にしたのかな、と思いました。状況証拠の盛り込み方もそのためかな。
 他局だけど『スペシャリスト』も冒頭解決やってましたね……

「馬鹿だよ。完全犯罪のつもりだっただろうが、過剰な演出で飾りすぎだ」
 火村の声が犯人に聴こえたのは『怪しい店』収録『ショーウインドウを砕く』のラストからでしょうか。この記述は 火村の恐ろしさ・得体の知れなさを示すわかりやすい箇所なんですが、ドラマ冒頭に持ってくるのはキャラクターの説明として巧いですね。
 ドラマ版は火村英生という人物の異常さ・恐ろしさ・狂気の部分がわかりやすくピックアップされているように感じます。

☆「この犯罪は美しくない」

 決め台詞。プロデューサー発案だとかなんとかどっかで見ました。
 よくわかんないですが「人間の不確定な意志が介在するから完全犯罪に綻びが生じる」という意味にもとれます。となると「完全な犯罪などない=美しい犯罪などない」という反語なのかもしれない、とはちょっと思いました。
 まああんまり深く考えるところじゃないと思う。
 ちなみに原作の火村はこれに類する発言はしてないと思う。多分してない。してないんじゃないかな……
「実に面白い」みたいなもんですかね。

☆「男は、学問にかこつけて人を狩る」

『ダリの繭』文庫p349より。

「火村先生の繭は何や?」
 彼は大きな欠伸をした。そして――
「学問にかこつけて人間を狩ることさ」
 あまりにも自嘲的な口調だった。

 ビーンズ文庫版では確か帯のキャッチフレーズにもなっていた台詞だったはず(手許にないのでうろ覚え)。
 火村の行為を端的に表した一言。
「ハンター」という喩えも割と作中に出てきます。

「あんたがハンター気取りの名探偵だってことだよ。犯罪者を蝶々みたいにコレクションして喜んでる正義の味方か。刑事でもないのにおせっかいな男だ。権力に飢えた下衆じゃないか。私の知り合いの男はな、あんたのことを化け物だと言ってたよ。天才の譬えじゃない。ただの化け物だ。当事者でもない、警察官でもないのに、犯罪の中に飛び込んできて、犯人を狩り立てて喜ぶなんてこと、まともな神経ではないものな」

(『ブラジル蝶の謎』収録『ブラジル蝶の謎』p68)

「いえ、有栖川さんの言うとおり、先生は笑ってなかったのかもしれません。けれど、顔の筋肉がほんの少し動いたんです。何か感情の変化があったことだけは間違いありません。私には、ハンターが獲物を照準に捉えた瞬間の表情に見えました」

(『妃は船を沈める』p235)

☆講義シーン

 ドラマでは物好きが受講する科目みたいですが、原作では人気講義っぽいです。

定員二百人ほどの階段教室はおよそ五割の「入り」だった。十二月二十四日という時期、しかも一講目だということを考えればまずまずの人気ではないか、と思う。

(『46番目の密室』p12)

「そんなことはありません。火村先生の講義は人気があるんですよ。採点が厳しいので有名だから、聴講だけする学生が多いんですけれど。内容が濃いだけじゃなくて、私語をするような学生は退室させるので、とてもいい授業が受けられます」

(『朱色の研究』p220)

 逸脱行動論というとマートンとかそのへんですかね……。講義で触れたことあるんですけど完全に忘却しました。助けて犯罪社会学クラスタ

☆下宿シーン

 映画『船を編む』みたいなのを想像していたらめっちゃ豪華でシャレオツでござるの巻。
 多分三人配置して映してごちゃごちゃにならないために広く取ったんでしょうなあ。それにしても全体的にオシャレ京都ドラマだ……。

 アリスの作品『桜川のオフィーリア』は江神シリーズの実在の短編名から。
 知らない人のために説明しますと、有栖川作品には火村シリーズと江神シリーズという二大シリーズがありまして(最近はソラシリーズもあるよ!)、火村シリーズ(作家アリス)シリーズは学生アリスが、江神シリーズ(学生アリス)シリーズは作家アリスが執筆しているという設定になっています。
 このネタ、ネタバレ扱いする人はネタバレに含めるんですけど、読んでても細かい記述拾わないとわからないし明言されてるわけでもないのでネタバレになるのかな~まあこの記事はネタバレ気にしないって書いたからいっかな~という感じです。以上。
 洞察はいいぞ

江神二郎の洞察 (創元クライム・クラブ)

江神二郎の洞察 (創元クライム・クラブ)

『金色の館』はなんだろう……綾辻行人館シリーズ的なノリかな……


 醤油ソース議論ですが、「火村がなんでも醤油かけるのは北海道という寒い場所出身だから、アリスがソース派なのは大阪出身だから」という説を見かけました。もしかして育ちの違いを味覚で表している可能性が微レ存……?

☆捜査シーン

 視聴中のメモに5回くらい「ヒガンバナ」って書いてあった。被ってない?大丈夫?堀北真希と共演する?
 小野は警部補らしいし部下に指示してるシーンがあるので、鍋島が係長小野が主任とかなんでしょうか。
 京都府警のキャラクターは原作の京阪神各県警のキャラクターをミックスした感じがしますね。鍋島は船曳警部+鮫山警部補、小野は高柳巡査長とあとちょっと野上巡査部長の要素もある?
 殺人現場を見る火村の顔を見て驚く小野の場面は前述の『妃は~』のシーンを彷彿とさせました。

☆「臨床犯罪学者」

 このフレーズの説明をちゃんと一話冒頭に持ってきたのはえらい。
 火村シリーズのメディアミックスで割と不満になりがちなのが、アリスの造語であるこの語が何の説明もなしに用いられることだったんですよね。あと「フィールドワーク」も使い道が普通と違うので説明してほしい所。
 原作の記述はこんな感じです。

 彼が言うフィールドワークとは、犯罪の現場に実際に飛び込み、警察の捜査に参画することだった。火村英生は文献を渉猟して論文をまとめたり、教壇に立って学生に自分の知識の切り売りをするだけの学者ではなかった。法律学、法医学、心理学にも通暁した彼は、犯罪捜査の実践―――探偵だ――にも豊かな才能を有しており、警察の捜査にしばしば加わっていたのだ。医学の世界には、基礎医学者に対して、患者の治療の実践に携わる臨床医学者という存在があるが、それに倣って、私は彼を『臨床犯罪学者』と呼んでいる。

(『ダリの繭』p14)

 また、アリスの説明した火村の推理方法は原作『絶叫城』から。

「とか言いながら、プロファイリングを応用しているんじゃないのかなぁ。私が見たり有栖川さんから聞いたりしたところからすると、火村先生は事件の全体を観察して犯罪のパターンを見抜き、過去の経験と照合することで真相を透かして見ようとしていませんか?」
 それはどうだろう。火村がどのように頭脳を働かせているのか、凡夫の私にはよく理解できない。しかし――
「おかしな表現になるけれど、事件の全体を観察して彼が見抜くのは、犯罪のパターンというよりも……犯人が拠り所としたものやと思うんです。ある時は手の込んだ偽装工作であったり、またある時は見えにくい犯行動機であったり……」

(『絶叫城殺人事件』収録『絶叫城殺人事件』p311)

☆絶叫城

 コ ン ト ロ ー ラ ー E L E C O M
 絶叫城の元ネタはクロックタワー説は結構見ましたが、割とそんな感じはしますね(やったことない)。
 零とかを想像していたので思ったよりローポリでちょっとびっくり。PS2くらい?と思ったけどMGS3とかもPS2だしなあ……
 30万本はホラーゲーとしては割と売れてる方ですね。ゲーム会社名が変わってるのは実在の企業と被るからかな?

 PVでもあった火村が右手を挙げる場面っぽいのが原作読んでたらあったので一応書いときます。

船曳警部の机の脇に立っていた火村がひょいと片手を挙げた。

(『ロシア紅茶の謎』収録『動物園の暗号』p76)

☆アリス自室

 みんな大好きカナリアネキ
 隣人のカナリアの飼い主・真野早織は『ダリの繭』で初登場、その後もシリーズにちょくちょく出てくるレギュラーポジションのキャラクターです。ドラマの女優さんはクレジットの位置的に橘美緒さんでしょうか? 綺麗な人でしたね。ドラマでも彼女がかかわる回をやってほしいもんです。

「今晩は。今、よろしかったでしょうか?」
 勤め先から帰ったところなのか、ラベンダー色のスーツ姿の彼女、真野早織は遠慮がちに尋ねた。右手に白い鳥籠を掲げている。それを見るなり、彼女の要件が判った。

(『ダリの繭』p58)
 彼女のカナリアは鳴かないカナリアという設定だったはずですが、ドラマ版では思いっきり鳴いてました。仕方ないね。

☆「憎むべきは犯罪者であって、犯罪ではない」

 ドラマ版火村のモットー。「犯罪者を憎み、犯罪を愛する」探偵という設定。
 この設定自体は原作の「人を憎んで罪を憎まず」というフレーズがベースになっているものだと思われます。

『廃馬は撃って楽にしてやれ』という慈悲心を犯罪者に対して抱くことはない、と彼は言う。そうなのだろう。これは私の誤解かもしれないが、彼は『犯罪者を憎んで、犯罪を憎まず』と考えているのではないか、と私には感じられたこともある。いつだったか、テレビで熱弁をふるう死刑廃止論者を冷ややかに眺めていた。

(『ダリの繭』p88)

 何故、犯罪者をほうっておかないのだ?
 人を憎んで罪を憎まず、などと言って嗤うのだ?

(『海のある奈良に死す』p285)

「私もそう思う。火村君の犯罪観について興味があるから、聞かせてほしい」
「犯罪観?」
「そう。『人を憎んで罪を憎まず』って言うたことがあったでしょう。あれはどういうことか詳しく聞きたい」

(『菩提樹荘の殺人』収録『探偵、青の時代』p178)

 原作の火村は特に犯罪を愛している感じはしない(犯罪学の研究も面白いからしているわけではない)のでドラマ化にありがちな誇張ではありますが、じゃあ原作の火村って犯罪を憎んでるの? と考えると「犯罪を憎んでいる」という記述と「犯罪者を憎んで犯罪を憎まず」という記述がコンフリクトするんですよねぇ。まあ後者は慣用句的用法ではあるんですけど。
 個人的な解釈では、「人を憎んで罪を憎まず」というのは「罪を憎んで人を憎まず」の逆、つまり「犯した罪ではなく罪を犯すに至った人間を憎む」と捉えています。犯罪を犯すに至る過程はあまねく全ての人間が選びうるものであり、だとすれば罪に至る要因を抱えることではなく、その道を選択した本人の問題であろう――と。これは火村シリーズ全体に通じる「人は誰しも犯罪者になりうる」というテーゼとも接続が可能です。
 だから、まあ、誇張ではあるけど、無根拠ではないかなあ、と思います。最初はびっくりしたけどな!


☆「人を殺したいと思ったからだ」

 火村の行動原理。そしてシリーズ最大の謎(作者が最大の謎と思っているとは言ってない)。
 このフレーズが作中で登場するたびに有栖川ファンの脳内には「クエスト達成」の文字が出現することで有名。
 これ、「原作では『人を殺したいと思ったことがあるから』だからドラマオリジナルっすよね?」という意見を聞いたんですけど、割と原作でも表記揺れてないですか?
 と思ったので調べてみました。

  • 「人を殺したい、と私自身が思ったことがあるからです」(『46番目の密室』)
  • ――俺自身、人を殺したいと真剣に考えたことがあるからだ。(『ダリの繭』)
  • ――俺は人を殺したいと渇望したことがあるからだ。(『海のある奈良に死す』)
  • ――俺も人を殺したいと思ったことがあるから。(『スウェーデン館の謎』)
  • 「人を殺したいと思ったことがあるから」(『ブラジル蝶の謎』収録『ブラジル蝶の謎』)
  • 「俺も人を殺したいと思ったことがあるから」(『朱色の研究』)
  • 「先生は、人を殺したいと思ったことがありますか?」

(中略)「あるよ。――それがどうかしたか?」(『朱色の研究』)

  • 彼は言う。自分はかつて人を殺したいと渇望したことがある、真っ黒く暗い淵に立ったことがある。そこから引き返したがゆえに人を殺す者が赦せないのだ、と。(『絶叫城殺人事件』収録『絶叫城殺人事件』)
  • 「俺自身が人を殺したいと思ったことがあるから」(『マレー鉄道の謎』)
  • 保護者の前でも聞いていられる穏当な回答だったので、私は安心した。さすがに「おじさんは人を殺したいと思ったことがあってさ」と語るとは思っていなかったが。(『乱鴉の島』)
  • 「人を殺したいと思ったことはあるが、自ら命を絶とうと思ったことはない。一度も」(『長い廊下がある家』収録『ロジカル・デスゲーム』)
  • 彼が犯罪学の道に進み、犯罪捜査に加わって<臨床的>にその研究をするようになった動機は、自分自身が人を殺したいと本気で思ったことがあるからだ、という。(『菩提樹荘の殺人』収録『アポロンのナイフ』)
  • ――人を殺したい、と思ったことがあるから。(『菩提樹荘の殺人』収録『菩提樹荘の殺人』)
  • 「火村先生は、人を殺したいと思ったことがあるから人を殺す人間が赦されへんのやそうですね」(『怪しい店』収録『怪しい店』)
  • 彼が狩人のように犯罪者の臭跡を追いかけ、法の裁きを受けさせようとする動機について、かつて自分自身が人を殺したいという願望を持ったことがあるからだ、と言う一方、いつ誰に対してどのような殺意を抱いたかは黙して語らない。(『鍵の掛かった男』)


 バラバラやんけ

 こいついつも人を殺したいと思ったことがある話してんな
 表記ブレは割とあるけど「思ったことがある」は割と定型ではあるかなーとは思います。ただ、『ブラジル蝶』を読む限り探偵行為の理由を問われる度にこの答えを返しているようなので(ええー……)、形を変えて同じ意味の言葉を違う表現で何度も口にしているのではないでしょうか。
 そう考えると表記が原作と違う云々とかもうどうでもよくなってきた。つうかなんでこんなん真剣に調べてんねん……徒労を感じるので二次創作とかする人はなんとかして役立ててください。



 なんかまあそんな感じで原作との比較など書いてみました来週はもうやりません。
 愚かにもドラマを観て初めて気付いたんですけど、『絶叫城』は作中のゲームの「クリアしたら主人公が狂気の城を引き継ぐ」という設定が、物語の「弟の連続殺人犯と言う肩書きを姉が引き継ぐ」ことに重ねあわされているんですねこれ……。やっぱり巧い話だなあ。そして奇しくもマスメディアの安易なゲーム悪影響説批判・「心の闇」言説批判を一話に持ってくるこのドラマ、次回が楽しみです。

絶叫城殺人事件 (新潮文庫)

絶叫城殺人事件 (新潮文庫)

原作も見とけよ見とけよ~

私生活が多忙で更新を怠りすぎていました。
レビューだの評論だの小説だのいろいろ書きたい文章はあるんですが、なかなか形になっていない状態です。休みの日に図書館にでもこもろうかな……。

有栖川有栖ファンとしては忙しいシーズンでしたね。
火村シリーズ新刊『鍵の掛かった男』、大変楽しく読みました。シリーズ内でも五指に入れていい名作なんじゃないかな? 人によってはトップになるかもしれません。
論理的に解決できる殺人事件の謎/論理では解き明かせない不条理な人間の謎、という二種の「ミステリー」を、一人の男の死の真相を探る話として巧いこと絡めて物語にまとめ上げる手腕は流石。今回は、本格ミステリファンにも訴求力があることはもちろん、普段ミステリを読まない人にも人間ドラマとしてアプローチできていて、なおかつどちらが疎かにならず結びついているのがとてもよかったです。
読み終わった勢いで読書メーターにアレコレ雑感を書きましたが、本格ミステリディスコミュニケーションの文学ととらえた上での、それでも人はコミュニケーションを希求する、という物語であると感じました。基本的に明るい読後感がそれほど多くないシリーズにおいて、この作品が前向きなテーマ性を提示しているように感じたんですよね。(例えば『ダリの繭』なんかは典型的に都市小説を意識して書かれたディスコミュニケーションの話なんですけど、テーマとして相互理解の不可能性でとどまっている気がします)
そのあたり、作中の言葉を引き合いに出しつつまた詳しく書評を書きたいものです。
そして火村シリーズといえばまさかのドラマ化! 来年一月が楽しみですね。
前にブログの記事でも触れた『すべてがFになる』ドラマは個人的に楽しめた作品だったので、新本格ドラマ化のいい流れが繋がるといいな、と思います。今やってるアニメも面白いです。

・今夏は何をしていたかというと、例年通りミステリーナイトに参加して(今年はなんと仲間6人で参加出来ました。人数が多いと盛り上がりますね!)惨敗を期してきたり、あとは『ファイアーエムブレム』25周年のコンサートに参加してアツい夏を過ごしたりしてきました。何を隠そうFEシリーズ大好きなもので、過去作から近年作までプレイ時の思い出を回顧しながらワクワクしたり感動で泣いたりしていました。
ファイアーエムブレムといえば、最新作のifも非常に面白くプレイしております。ゲームファンとしては対象層によるバージョン分けという画期的な試みに着目したいですし(システムもマップもストーリーも異なるというのは中々ないやり方です)、物語好きとしてはゲームにおけるナラティヴ概念とパッケージングの時点でプレイヤーに選択の余地を与えることの相関性について考えていて面白い題材やなあ、と。このシリーズはナラティヴ概念で語れることが結構ありそうなのにそういう分析がないっぽいので、その辺時間があったら文章にしてみたいです。ストーリーが重厚と言われがちなゲームですが、どちらかというとプレイヤーが独自に生成するナラティヴを重要視しているゲームだと思うんですよね。

・日々生きるのに精いっぱいですが、なんとか生きてます。
小説書きたいです。

正義の射程――『劇場版PSYCHO-PASS』を観ました

☆はじめに

長々と放置していましたが、あけましておめでとうございます。
本当は昨年12月の文学フリマの感想とかちゃんと書きたかったんですが、いつのまにか時間が過ぎていました。怖い! 文フリで手に入れた同人誌も読んでるので後々ちゃんと文章にしたいですね……。

で、ここ数か月何をやっていたかというと、わりと映像に対する熱が上がってたので、huluに加入したこともありドラマなりアニメなり映画なりをぼちぼち観てました。個人的に数年に一回刑事モノブームがくるんですが、今回もそんな感じで(堤幸彦作品を観たりしてます)。
その流れで今一番楽しんでる作品がPSYCHO-PASSなのですが、今月封切られた劇場版を観に行ったので、雑感を書き留めておきたいと思います。

いやほんと、純粋にすごく面白い映画でした。最初は事前情報何もナシで、すわ「虚淵さんだし叛逆の物語みたいなどんでん返しがあったらどうしよう……」と怯えながらの鑑賞だったんですが、シリーズもの劇場版としてスタンダードな作りではあるものの、アクションあり、メカ・ミリタリー要素あり、メッセージ性あり、ロマンスとまではいかなくとも人間ドラマありで、あとは音響がすごいとか劇判もヤバイとかシラット超カッコイイとか色々あるのですが、とても濃密な作品になっていたと思います。
スタンダード、とは言いましたが、もちろん舞台設定が舞台設定なので一筋縄ではいかず、エンドロール後のラストシーンなんかは非常にアイロニカルでいろいろ考えてしまうものです。これは多分細かい伏線とか要素を追うために複数回鑑賞したほうが面白くなるんじゃないかなー。

☆思想なきヒーローの顛末

サイコパスというシリーズは「近未来のディストピアSF的舞台における刑事モノ」というジャンル上、群像劇的にどの登場人物の視点から物語を概観しても面白い作りにはなっていると思うんですが、中でもこの作品の軸となるのは常守朱狡噛慎也という二人の主人公になると思います。
「シビュラシステム」という人間の意思決定を代行しうるシステムが社会の根幹にある国で、「自分にしかできないこと」を求めて公安局刑事課監視官という職を選び、壮絶な事件と相対する中で「システムに頼らず、自分の意志で未来を選択する」ことを見出す常守と、かつて監視官でありながら部下を殺害した凶悪犯を追ううちに執行官に堕ち自らも復讐者として殺人という境界を踏み越えることになった狡噛。
「犯罪係数」という、人間が潜在的に犯罪を起こしうる可能性を数値化したものが明示される技術を背景に、この二人のそれぞれの「正義」が問われたのがテレビアニメ版だと思います。

今回、劇場版において、更にこの二人のスタンスの違いがくっきりと浮かび上がり、その対比が非常に面白かったです。
パンフレットの虚淵玄深見真の対談において、狡噛は

「そんなに広い視野を持っている人ではなくて、流れ着いたあの場所で、行きずりの悪を見逃せないので戦っているだけという。生まれついての猟犬なんでしょう」「悪人が出てきたらむしろ喜ぶ、正義と暴力のワーカホリックですね」

と説明されています。自分はアニメ一期を観て、狡噛のキャラクターを捉えかねていた部分があったのですが、この説明や劇場版本編を観てすごく腑に落ちました。
常守の視点は社会の全体を、そこに属する人々の一人一人を捉えているのに対し、狡噛の視点は自分のまわりの物事しか捉えられていない。一期の狡噛には槙島聖護という目標があったからこそ芯の通った人間に見えたものの、彼は本質的には根幹となる思想や信念を持たず、ただ目の前の物事に反応して動いているだけだったんだなあ、と判って、ようやく合点が行きました。

劇場版においても、狡噛の「正義と暴力のワーカホリック」さは如何なく発揮されています。
日本から逃亡後、一度は安息の地を探していたものの、シビュラの恩恵によって鎖国体制を敷き国外の世界的な紛争状態から逃れることが出来た日本の外に平和な地はなく、結局は舞台となるシーアンに辿り着いて日本製ドローンへの対策を教え込むため反政府ゲリラの軍事顧問を務めることになった狡噛ですが、彼は無自覚に周りの人間を惹きつけ、半ば崇拝されるようなかたちでゲリラ間の精神的支柱となっています(狡噛と常守がゲリラのベースキャンプに戻ってくる場面、まるで宗教の指導者のように崇められる狡噛の姿が見られ不気味でよかった)。狡噛自身には人を動かす意志はなくとも、周りに集まってくる人間に答えて行動しているうちに、彼は指導者のようなポジションについてしまうことになりました。
最初に劇場版についての情報を見たとき、「槙島を殺害したとはいえ自身の正義に忠実に行動していた狡噛が、どれだけ体制側に理がなくとも安易にテロリストに加担して血を流させるような真似をするだろうか?」という疑問を抱いたことをよく覚えています(最悪これ別人やクローンネタなのでは?とかも考えてました)。
実際に劇中でもそのあたりを常守にツッコまれており、それから意図せず人を惹きつける狡噛のカリスマ性の話になり、槙島と同等の素質を兼ね備えてはいるが狡噛は槙島と違って意図して人を思い通りに動かそうとはしていない、という常守の持論に、狡噛は「ヤツをそんな風に認識していたなら、手こずるわけだ」という意味の返答をします。
狡噛としては槙島も意図して人を扇動するようなやり口ではない、という認識であり(槙島は人を炊きつけて犯罪をさせていましたが、自分の手足として動かしていたわけではなく、あくまで他人の行動を見て楽しむ傍観者だったからでしょうか)、計らずとも自分と仇敵の類似性を認める結果になっています。思想なき狡噛という男の空虚が、犯罪者の思考を追ううちにそれによって埋められていくという皮肉……。
そもそも、狡噛の思想のなさ・視野の狭さも、天性のものともとれますが、もしかしたらシステムによって選択を代行された社会の歪みそのものなのかもしれません。だとしたら、そんな狡噛がシステムの支配下から疎外されたのは本当に救われない話です。

☆ミクロの正義とマクロの正義

狡噛の視点はミクロの視点です。身の回りのことしか見えず、目前の善悪に反応して行動するしかできない。だからこそ、マクロの視点で社会の最善を計算し一定の「犠牲」を生むようなシビュラシステム下の社会では生きることができない。
また、そうした画一的な思考に囚われることなく、自分のしたいように行動するその姿は、抑圧された人々には非常に魅力的に見えることでしょう。彼はマクロの視座から残酷な天秤の測り手となることもなく、目の前の人々を助けるために無償で動くことでしょうから、そりゃ内戦に苦しむ民の精神的な支えにもなるってもんです。厄介なのは本人に自覚のないことですけど……

そして、そんな狡噛を刑事の先輩として尊敬しつつも道を違えることになった常守。彼女は狡噛のようなミクロの視点を失うことなく、マクロの視点をも獲得しています。
シーアンの現状に憤りつつも、シビュラ相手に対等に立ち回ることができるのは、きっと彼女だけでしょう。終盤、狡噛の許に宜野座を向かわせて自らはハン議長の許へと向かう旨を告げる常守のシーンは象徴的です。
もちろん宜野座と狡噛の友情を図っての意図もありますし、宜野座なら狡噛を無碍に扱うことはないだろうという推測あっての指示でしょうが、彼女が相対するべきは狡噛という個人ではなく、シビュラというシステムそのもの。拘束されていた狡噛と常守を一係が救出に訪れてからの二人が別れるシーンにも共通しますが、異なる視野を持つこの二人が戦うべき戦場は異なるのです。
この「レンジの異なる二つの正義」の交わりと別離を、テレビ版にも増して鮮明に描いた劇場版は、自分にとってなかった思考を齎してくれたように思います。異なる正義がぶつかり合う、という物語は沢山ありますが、こういうカラーの描き分け方はなるほどと思わされました。自分はどちらかというと視野が狭くて目の前の物事に飛びつく狡噛タイプなので、常守みたいな生き方がすごく羨ましく見えますね。

☆「怖い」主人公

そういった狡噛の立場を踏まえても、今作の狡噛は「怖い」人物だったような気がします。
テレビ版からして、彼は犯罪者を追ううちにそれに同化していく、「怪物と戦う者は、自分も怪物にならないよう注意せよ。深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込む」を地で行く人物だったのですが、劇場版ではより大きなうねりの中にいるせいでしょうか。
今作は『地獄の黙示録』モチーフだそうで(そういえばデズモンドの台詞のワーグナー云々ってワルキューレの騎行か!)、言われてみれば体制側から切り離された人間がカンボジアぽい場所で人間を率いてドンパチやってるぞ! という感じなのですが、カーツ大佐ほどの狂気やラスボス感はなくとも、狡噛の「無自覚に人間を牽引してしまう能力・生き方」っていうのは、一歩間違えれば槙島になりかねないという意味でも恐ろしいものだと思います。そういえばこの人、一期で『闇の奥』読んでたな……。
憲兵隊の現地民への不正を赦せず行動を起こしたり、常守や宜野座などかつての仲間を案じたりと、人間らしい感情の動きは見せていたはずなのですが、やっぱりミクロの視点しか持ち合わせない人間がゆえの危うさが前面に出されていたように感じました。
だってこの人崇められてるんですよ!(笑)あれ以上放っておくと余計死人が出る、という使命感もあったけど、大体の部分は私怨で占められた理由で法を破り人を殺して逃亡した男ですよ! そんな人間が……。
そういう人間だから、なのかもしれませんけど、本人も自分のスキルに怯えているわけで、ちょっとこの辺の後味の悪さは一期から観てきた人間にはつらかったです。今後、周りに集まってくる人間を救おうとした結果、多くの人々を率いて社会の敵となって常守たちの前に帰ってくる、とかそういう展開がありそうで怖いなぁ。メタルギアにおけるビッグボスみたいな。
半ば臨死状態で槙島の幻影を視るシーンには本当にゾッとしました。思想なき男が仇敵の姿を借りた己の無意識下の疑問に問い殺される場面ですね、アレは……。でも槙島が登場してパイプオルガンのBGMが流れるとなんとなく笑っちゃうんですけど……。

常守朱の選択

で、狡噛の話ばっかりしてしまったわけですけれども、自分が心惹かれるのはむしろ彼と対比されている「レンジの広い正義」の持ち主である常守のほうです。
一期からして友人を手にかけた槙島を殺しそびれてからの彼女の株が上がりっぱなしだったんですけど、やっぱりこういう「不完全な法と眼前の悪を秤にかけた結果として、法を逸脱せず己の殺意を収めて終わる」タイプのキャラクターがものすごく魅力的に見えるんですよね。有栖川有栖の火村シリーズとかもそういう要素ありますね。
こういう類型の登場人物が殺意を収めて終わる理由っていうのは色々あるとは思いますが、彼女の場合は法秩序が社会を、そこに属する人間を守っていることを知っているから、完全でないことを知りながらも法に従ってしか槙島は裁けないと理解していた、ということでしょう。
しかもそこで留まることなく、「法が人を守るんじゃない。人が法を守るんです」「社会が必ず正しいわけじゃない、だからこそ私たちは正しく生きなければならない」と、民主主義における社会の構成員の意思表示の重要性の話になってくるんですよね。実際、彼女はシビュラにかけあって取引のできる立場にまで上りつめたわけで、二期では間接的ながらその制度を改編するまでの仕事をやっているわけです。
こういう「現状を肯定せず、かといって壊すわけでもなく、よりよい未来を模索し行動していく」キャラクターは珍しくていいな、と思います。自分が知っている虚淵作品(『沙耶の唄』『Fate/Zero』『まどか☆マギカ』辺り)を考えると、こういうミクロとマクロを折衷しつつ生きていくキャラクターってあんまりいなかったと思うので、稀有な存在なのかな、と。

この作品の憎いところは、一応理想的なポジションとして描かれる常守にもバンバン反証をぶつけていくところだと思います。
まず一期の狡噛という理屈の外側の復讐者を止めることはできませんでしたし、二期も彼女にとって試練の連続でした。特に霜月の存在は意図的に常守と対比させるためにぶつけられてきたもので、同じく友人を殺された過去を持ちながらも常守とは正反対に臆病なシビュラの賛同者として育っていく様が見事に視聴者の期待を裏切り、ある種痛快ですらありました。でも当たり前なんですよねぇ。みんながみんな常守になれると信じていた我々のほうが固定観念で人を判断していたわけですから。
常守の信念はある種マッチョイズム的な側面があるもので、彼女のような考えを持てる強さや社会的地位がない人間にとっては刃にもなるものでしょう。そこのところの「一筋縄ではいきませんよ」という意味としての霜月の配置は本当に巧かった。あの子、劇場版では有能で容赦ない奴隷になっていて感動しました(笑)。「空気読めってことですよ」って言葉は本当にシビュラ下の社会を端的に表してますし、現実にもリンクしますよね。
そしてこの劇場版では、シビュラの神託によって幸せな道を歩む友人からはじまり、伊藤計劃作品もかくやという紛争にまみれ荒廃した世界で、日本だけが鎖国しシビュラに頼り治安維持を行うことで一応の平穏を得ているという、よりシビアな現実が突きつけられました。ゲリラ掃討戦の描写とか本当にきっつい(描写がグロいとかではなく、常守の立場に立ったとき日本の現状を肯定しなきゃいけなくなる作りが)(でもメカはかっこよかった)。
暫定のシステムでもないよりはまし、というのはシンプルな理屈ですが、技術には恩恵と欠点の両者が存在し、全ての人間を救う最適解なんてものは存在しないのだ、とはっきりわからされた感じが、もう……。
シーアンに民意による選挙を導入した、という点で、たとえ人民がシビュラを選んだとしても常守のしたことは無駄ではなかったように思いますが(そして彼女本人もある程度想定はしていたのではないでしょうか)、それでも最前線に飛び込んで生活している狡噛にとっては何も変わらない、というのがラストシーンのアレですかね。銃を構える少年を見て驚いた表情で煙草を取り落とし、苦笑を漏らして終わる。
エンドロールの後の短いシーンですが、これがあるのとないのとでは作品ががらりと変わってきますね。

☆その他もろもろ

他にもいろいろ書こうと思えば書けることがいろいろある、様々な方面から切って楽しい作品になっているので、個人的には予想していたような完結編ではなかったものの非常に楽しい作品となりました。
あんまり真面目じゃない方面の話としては、宜野座の成長が嬉しかったです。こういう「主人公になれない」「選ばれない」側の人間がどう足掻いて運命に対処していくかは、それだけで一つの作品に出来るくらいだし、ものすごく好きな題材なのですが、アニメ一期二期を経て一つの決着と解答がもたらされた劇場版の彼は本当に魅力的ですね。激しいアクションや強襲型ドミネーターでのスナイプもクールだったし、なにより狡噛に引け目や劣等感を感じていたであろう彼が対等な立場として並びたてる人間になったのが感無量です。
狡噛・宜野座・常守の三角構造は物語の幅を広げるいい配置だなあと思います。
あとは生々しさでしょうか。システムに支配された仮初の楽園である日本と、終わりなき内紛から脱け出せない諸外国。テレビアニメ版でシビュラシステムに疑問を持った視聴者に現実を突きつけ、「どうにもならない」世界の様相をこれでもかと見せつける中盤のゲリラ掃討戦シーンは非常に力が入っていました。非現実的に見えて現実と地続きの場所にあるように見える世界――よく考えれば、個人の状態を数値化する試みも、犯罪を病理ととらえる考え方も、現実に存在するものなんですよね。伊藤計劃の『ハーモニー』における健康を第一の価値と捉える高度福祉社会の、精神医療バージョンみたいなものかと思います。
まだいろいろと考えたことはあるんですが、観た人の心に波紋を広げる感じがサイコパスという作品のいいところなんでしょうね。エンタメとしても楽しめる小ネタが沢山でしたし、どこを切っても面白い作品でした。ぜひこのプロジェクトが続いて続編が制作されることを祈ります。

三期はミステリ作家呼んで刑事モノ回帰もやってくれないかなー(笑)