幻想俯瞰飛行

生存記録を兼ねて長文を書くためのブログ。文章読んだり書いたりします。 

ASIAN KUNG-FU GENERATION『リライト』、10年の時を超えて語り直されるロックンロール

 いつも本の話(というかミステリの話)ばかりですが、今回は趣向を変えて音楽の話をします。
 といっても前に書いた通り、もともと高校時代にはてなで音楽ブログをやっていたので、個人的にはとても久々に音楽の話をするぞ、という感覚です。当時は批評の言葉も知らず、それどころか音楽批評を目の仇にしてきたところもあるので、今また別の言葉で語れるものがあるといいなあ、と思いつつ。


 結成20周年を契機にアジカンの名盤『ソルファ』が10年ぶりに再録されるとのことで、まさしく『ソルファ』を聴きまくった世代のアジカンファンとしては心待ちにしているのですが、再録版『リライト』のMVが発表され、さらにこんな企画まで。
natalie.mu
www.asiankung-fu.com

 フリースタイルダンジョンを観ていた身としては「すごい……R-指定がアジカンをトラックにフリースタイルラップしてるのが見られるなんて……」という感激もあるのですが(ACEともコラボしていましたし、後藤さん前々から結構ヒップホップも好んで取り入れられてるんですよね)、この企画自体がすごいな、と強く思いました。
 前述のCreepy Nutsはストレートに『リライト』のビートに乗せたフリースタイルで魅せていてカッコいいし、入江早耶さんの作品は初めて拝見したのですが消しカスでここまで創れるのか、という驚きと感嘆がありました。千原ジュニアの落語『死神』ネタは地味にうまい語り口にキレッキレのネタが合わさり、生ハムと焼うどんに至ってはもう何がなんだかわからないけど何故か謎の感動があります。
 ジャンルも表現方法も全く異なる四つの動画において再解釈された『リライト』。これは10年前にこの曲をリアルタイムで聴いていた身としては、また違った感慨があります。


 そもそも『リライト』とはどんな曲か。この時期のアジカンを追っていた人はわかると思いますが、いわゆるコピーコントロールCD問題についてのスタンスが色濃く出ている歌詞です。
 CCCD問題に関してはデビュー時から後藤さんは結構言及しており、まだ新人だった彼らは地位あるアーティストのようにNOを突き付けることも難しく、かなりの苦悩を強いられた部分も大きかったと思いますが、そうした葛藤や無力感がこの曲に結実しているのだと思います。だから「腐った心を/薄汚い嘘を/消してリライトして」なのですね。
 後藤さんのCCCD問題についての見解はこういう記事もあるので一読してみることをお薦め。
コピー・コントロール・ディスクを巡る回想記|Gotch / 後藤正文 / ASIAN KUNG-FU GENERATION / ゴッチ

 そういった政治的な言及を孕むプロテスティックなロックンロールであると同時に、この曲はアジカンの代表曲、ヒットナンバーでもありました。人気を博したアニメ『鋼の錬金術師』の主題歌に採用され、シングルは累計10万枚以上の売り上げを記録した(アジカンはアルバムが売れるタイプのバンドなのでこの数字は少なく見えますが)この曲は、よくも悪くも有名になりました。前述したサビの「消して、リライトして」というフレーズは独り歩きし、ある種ネタとしての消費も盛んに行われた(というか、現在も行われている)と把握しています。アップテンポな曲であることもあり、ライブではイントロが流れれば歓声が上がり、観客が拳を突き上げ盛り上がる場面が見られるまごうことなきアンセムといえるでしょう。


 作り手の意図から離れた個所で作品が独り歩きするのは珍しいことではなく、また否定すべきことでもないと思います。それはある種仕方のないことでもあるし、ヒットというのはそういうものでしょう。もちろんそういった作り手と受け手のズレにアジカンが悩まなかったわけではないし、それどころかものすごく考えてモノ作りをしていた人たちだと思います。『ソルファ』の次のアルバム『ファンクラブ』の一曲目を飾る『暗号のワルツ』が「君に伝うかな/君に伝うわけはないよな」という衝撃的なフレーズで終わるように。


 そういった苦悩をもどかしく見ていたひとりのファンとしては、この10年目の『リライト』は本当に感慨深いものでした。
 再録版のMVは旧版のMVの明確なパロディであり、『リライトのリライト』で再構築された『リライト』は、まさしく前述の「拡散していく中で多様な解釈が加えられさまざまな手法で消費されてきた『リライト』」じゃないですか。
 作り手の意志を汲んでCCCD問題について考え意見を表明してもいい。ただ純粋に音楽として楽しんでもいい。大好きなアニメのOPとして毎週楽しみにしていてもいい。カラオケで熱唱してストレスを発散するナンバーでもいい。ライブでみんなと盛り上がる曲でもいい。「けしてええええええええええ」とネタにされるのでもいい。そうやって書き換えられリライトされ、語り直されていくことで、この曲は人々の心に留まり、歴史に残り、永遠になっていく。
 もしかしたらこれは、自身の作品が戸惑うほどに広く消費されてきたこの10年間への、アジカンの一つの回答でもあるのかもしれない、というのは邪推がすぎるでしょうか。自分は勝手にそんな解釈をしてしまい、10年という時とその中での自分自身とアジカン双方の変化を思い、思わずうるっときてしまいました。

 
 と、ここまでファンの立場として書いてはきたものの、自分がアジカンを一番よく聴いていた時期は中高時代で(あの頃はロック聴くかミステリを読むかだったのです)、それ以降はライブに行く回数も減り、音源をぼちぼち聴くくらいには落ち着いた程度のファンです。飽きたとか好きではなくなったということでは全くなく、未だに「ああ、やっぱアジカンはいいなあ」と思うことがちらほらありますが、中高時代の自分のような熱量でいまアジカンを追っているファンの方の『リライト』への向き合い方ってどうなんだろうなあ。その辺はちょっと気になります。

僕らは「ゲームでしか味わえない感動」を知っている。――詠坂雄二『インサート・コイン(ズ)』

インサート・コイン(ズ) (光文社文庫)

インサート・コイン(ズ) (光文社文庫)


 大仰なタイトルになってしまった。
 ご存じの方も多いと思うが、「ゲームでしか味わえない感動がある」とは、NINTENDO64版『ゼルダの伝説 時のオカリナ』発売時のキャッチコピーである。テレビゲームの王様たるマリオシリーズもろくにクリアできない、いわゆる「ヌルゲーマー」としてゲーマーの末席を汚してきた自分も、このコピーは大好きだ(でも、『時のオカリナ』は未だクリアできていない。ゼルダシリーズは難しいのだ)。
 でも、果たして「ゲームでしか味わえない感動」ってなんなんだろう。そうやって改めて振り返ったとき、テレビゲームというメディアが映画や小説といった他の媒体と異なる大きな要素として、インタラクティブ性、つまり自分で操作できることが挙がると思う。

 近年、ゲーム批評界隈のバズワードとして「ナラティブ」という概念がクローズアップされている。
[CEDEC 2013]海外で盛り上がる「ナラティブ」とは何だ? 明確に定義されてこなかった“ナラティブなゲーム”の正体を探るセッションをレポート - 4Gamer.net

 物語論に多少の親しみがある自分にとってはすんなり受け入れやすい概念だが、ストーリーとナラティブを混合して語る向きは未だ多い。ゲームというメディアが(例外はあれど)インタラクティブ性によって独自性を確立している以上、用意されたリニアなストーリーより、プレイヤーが独自に獲得するナラティブが重要視されるのもしかるべき結果だろう(個人的に興味のある分野でいえば『ファイアーエムブレム』シリーズに途中からマイユニット要素が搭載されたことなど、このへんの流れで語れることがあると思う)。
 ひとはゲームから、個人に固有の「物語」を受け取る。
 だからこそゲームは思い出と密接に結び付き、プレイヤーの汗と涙、喜びや悲しみと切に関係を深めることができるのであろう。
 

 本作『インサート・コイン(ズ)』を手に取った直接のきっかけは、米澤穂信の寄せた帯文だった。

「世界なら何千回も救ってきたのに、自分一人を救いきれず、もがきながら『たたかう』を選び続ける、これは痣だらけの物語だ」

 これだけでも読みたくなるには十分なキャッチコピーだ。

 『インサート・コイン(ズ)』はゲーム誌ライターの柵馬を語り手に据え、往年の名作ゲーム(ファミコンスーパーファミコン期あたり)を題材にした短編が五作収録された短編集である。『マリオ』や『ぷよぷよ』『ゼビウス』、『ストリートファイター』に『ドラゴンクエスト』といったラインナップを挙げるだけでも十二分に訴求力はあるが、単なる「ゲームあるあるネタミステリ」に留まらない力が本作には存在する。
 その魅力とはなんだろう? 昔遊んだゲームたちを大人になったいま郷愁と共に思い出す、そういったノスタルジーだけでは前述の「あるあるネタ」の域を出ない。この作品はそこに留まらず、過去を懐かしみながらもうだつのあがらない現実と戦っていく力強さを持っているのだ。
 本作はゲームを題材にした小説ではあるが、それ以上に「書くこと」「語ること」「創ること」を描いた、普遍的な側面を持つ小説でもある。

「ほら、シューティングのハイスコアと同じでしょう。ルールを設定した者の想定を超えること。先人たちの誰もが想像していなかった文章を書けば、それは問答無用に読者を圧倒するものになるんですよ」
「でもそれは、簡単じゃありませんよね」
「不可能でもありませんよ。何も物理法則を超えろと言っているんじゃありません。無謬の神ならぬ誤る人が作ったもの、いくらでも超えようはありますよ」
(『インサート・コイン(ズ)』より)


 ミステリとは、「問いかけても答えない死者=謎にそれでも答え=解決を求めようとする人間」の物語である。つまり、本質的にディスコミュニケーションの文学たりえるのだ――というのが自論だ。言葉は言葉として発せられた以上、発信者の意図そのままに在ることは100%不可能であり、ひととひとが受け取り合う上で必ず大なり小なり摩擦を生む。
 それでも、ひとはコミュニケーションを志していくほかない。ひとは独りでは生きられないし、必然的にだれかを求めてしまうからだ。そんな不完全なコミュニケーションの中にそれでもさらなる活路を生もうとする意思、それこそが「シューティングのハイスコア」であり、謎という断裂を復元しようとする推理であるのだろう。伝わらないのなら、伝わらないままに受け取ればいいのだ。
 他者の「物語」を読み解こうとする意思、それが個々の「物語」を生成するためのゲームという媒体と、謎を解こうとするミステリというフォーマットの橋渡しとなっている怪作である、と強く思う。


 個人的なフェイバリットはまず『ぷよぷよ』を題材とした『残響ばよえ~ん』。初恋の人である中学時代のクラスメイトが抱えた秘密を十年越しに解き明かす、過去を懐かしむ日常の謎ミステリの体裁をとっているが、設問と解答の明確さ、また解答に至るまでのヒントの回収の美しさが純粋にミステリとしてポイントの高い作品になっている。有栖川有栖『ハードロック・ラバーズ・オンリー』のゲーム版、といったらわかる人にはわかるだろうか。
 また、ゲームを題材にしたミステリというだけあり、ただゲームの話が出て終わりというわけではなく、テーマとなっている『ぷよぷよ』の持つとある特性が謎解きのヒントになっているところも良い。ゲーム論と併せて「なるほど」と唸らされた箇所である。アーケードゲームの描写もその筋のゲーマーにとっては嬉しい部分だろう(自分はあまりアーケードやらないんですよね)。

 あとは最後に収録されている『そしてまわりこまれなかった』。自殺した友人からの最期の年賀状に込められた『ドラゴンクエストⅢ』の謎を解く、つまりは「ディスコミュニケーションに終わった死者の言葉を復元する」ミステリらしい話である。世代であれば(自分は実は世代より下なのですが、GB版をめちゃくちゃプレイしました)かなりの割合の人間がプレイしたであろう超名作を題材に、ゲーム自体にも新たな解釈を付け加えつつ、それが死者の意志を読み解く最大のヒントになりうるという構成も見事な作品だ。読み終わってタイトルの意図がわかった瞬間、鳥肌が立つこと間違いなし、といえる。
 幼少期にゲームに親しみそのまま成長し、社会人になってプレイのためのまとまった時間もなくなり、それでもゲームを辞められないまま愛し続けている、そんな大人たちに是非読んで欲しい作品。



 というわけで、『ドラクエⅢ』を再プレイしようかと思ったんですが、手許にあるはずのGB版が見つからず、なぜか『ドラクエⅠ』をやっています。竜王強い……強くない?

雑記 『狩人の悪夢』と『ダークナイト』とか 

※『狩人の悪夢』連載最新話の話題に触れています。トリック、推理等に関する言及はありませんが、文中の引用がありますのでご注意ください。



ご無沙汰しております。最近話題のハイローを視聴し始めました(次の映画までにはドラマ完走したい)。あとダンガンロンパ3の展開がつらいです。
10月は観たいドラマも欲しい本も増えるし個人的にも忙しいのでヤバそうです。

有栖川有栖『狩人の悪夢』、相変わらず熱冷めやらず文芸カドカワで連載を追ってます。
事件の新展開と解くべき謎が明確化してくるに伴って、ここにきて明確に「探偵は何故探偵なのか」=「火村英生は何故探偵行為を行うのか」を問い糺すお膳立てが整ってきたな、という感じですね。火村にとって探偵行為は目的か結果か、というテーマ性の話は前記事でしましたが、段々その答えに至る過程が理解できてきました。
火村の内面には探偵行為を手段とする思想(=研究者としての火村英生=人間性)と、目的とする思想(=狩猟者/名探偵としての火村英生=怪物性)の両極が存在し、それらの拮抗こそが『狩人の悪夢』で語られる物語になるのか、と感じます。そしてこれはドラマ版の「自身の怪物性と共存していく話」に接続可能ですよね。原作がどんな回答を打ち出すのか非常に楽しみ。


今回のこの部分。

「火村先生の出る幕はないどころか、お前に打ってつけの事件になってきたみたいやないか」
 彼は、能役者のごとくゆっくり面を上げた。写真班が焚くフラッシュのせいで、一瞬、その顔が人間離れしたものになる。
「そうだな。この現場は、とても面白い。犯人の呻き声や悲鳴がこだましている」

直後の描写(この台詞を口にしながら火村は笑っている)から明確に作者が意図しているのがわかりますが、前述の「人間性と怪物性の相克」における「怪物性」に振れた描写の最たるものがここではないでしょうか。火村の笑み、といえば、『妃は船を沈める』で高柳にそれを指摘されるシーンがありましたね。彼の笑みは火村シリーズにおける怪物性の象徴ともいえるでしょう。
今作の『狩人の悪夢』においては、とにかく目まぐるしくこの両極に振れるシーンが連続する印象があります(全部拾って例示するのはちょっとめんどくさいので、読んでいる方がいたら意識してみてください)。敢えて火村の印象がブレるように描かれている気がするんですよね。このジェットコースター感が意図的だとしたらものすごい挑戦的。


このシーンでなんとなく思い出したのは、バットマンに出てくるヴィランの一人・トゥーフェイスでした。
元は正義を是とするゴッサムの検事で、ある事件をきっかけに顔面の左半分が焼け爛れる怪我を負い、狂気の人格に目覚める男。
自分は寡聞にしてアメコミに疎く、クリストファー・ノーランの三部作で初めてちゃんとバットマンに触れたのですが、『ダークナイト』のトゥーフェイスがめちゃくちゃ印象的だったんですよねぇ。高潔だが悪を憎む気持ちが強すぎてジョーカーに魅入られる処刑人。一人の人間に共存する善性と悪性を象徴するかのような強烈なルックスですよね。
で、なんで思い出したのかなぁと考えてみると、勝手に頭の中で思い描いているイメージもあるんでしょうけれど、そうかこれは「火村英生という人間の人間性と怪物性の両極」が「光と影」でそのまま見た目に投影されているからか、と気づきました。効果としては半分焼け爛れた顔面と同じ。一人の人間の顔(というのは心情とか思想の象徴なわけだよね)に非人間性が上乗せされている。火村がああいった信念を持っている名探偵である以上、人間性と怪物性はコインの裏表でしかない。

ただ、『狩人の悪夢』におけるこのシーンが皮肉なのは、「殺人事件を面白がる」火村の怪物性を露わにするのは闇でなく光、というところなんだよなぁ。
写真のフラッシュというのも意味深で、『狩人の悪夢』はいつになく火村に関する情報がどう流れどう堰き止められているかの話が盛り込んであるので、本当に報道陣にフラッシュ焚かれるような自体になるんじゃないかとヒヤヒヤします。「名探偵と権力」の話は法月綸太郎作品(そういえば実写化ですね!)を読んで「政治的やり取りにちゃんとコミットして戦略をやる探偵すげー!」みたいな気持ちになったので、ちょっと火村シリーズで見てみたい気もします。



余談を重ねます。『ダークナイト』のトゥーフェイスに関する話で、とても興味深いと思った伊藤計劃氏の評。
d.hatena.ne.jp


ハービー・デントという人間の両極を背景美術によって表すサブテクストの力。伊藤さんの『ダークナイト』評といえばこっち(ダークナイトの奇跡 - 伊藤計劃:第弐位相)が有名で、自分自身「世界精神型悪役」の話など結構引用させていただいているのですが、こちらの記事もなるほどなと思わされた記憶があります。
多分この記事のことが念頭にあって、例のシーンを読んだときにダークナイトのことを思い出したんじゃないかな、と思うので、紹介しておきます。


ここまで書いていると、いろいろ特に関係ない考えが出てきました。
・能とか狂言みたいな芸能って遡ると神降ろしに行き着くもので(幻影異聞録の話か???)、「能役者のごとく」という比喩は単純に動きを表したものでもあると思うんですけど、「人間離れ」する先は怪物であり神なのでは、シン・ゴジラだ……(シン・ゴジラ面白かったですね……)
・というかもう割と捻りなく『ダークナイト』のトゥーフェイスと火村共通点ありますね
・でも『ロジカル・デスゲーム』の火村は『ダークナイト』のバットマンと同じ決断を下したんだよなぁ
・背景美術を利用したサブテクストといえば、何を隠そう(?)『臨床犯罪学者 火村英生の推理』に思い当たる場面がある。7話のラストシーン、鍋島の背中を映すカメラが左にパンし、鍋島を境界として故人である緒方が画面左に現れる演出。ちゃんと確認してないんだけど、多分左にしか姿が現れない。
これは人間の立ち姿を境界として画面左が過去、右が現在の領域を表してるんだと思うんだけど、この回『朱色の研究』自体が過去の事件と現在の事件が相関しあうつくりになっていて、ここで過去の因縁との決別として現在と過去の境界が描かれていたんだなあと先の伊藤氏の記事を読みつつ今更ながら思った。



また書きたいことだけ書いてしまったのでそろそろ『切り裂きジャックを待ちながら』の原作・ドラマ比較とか書きたいです。『ペルシャ猫の謎』は割と評判芳しくないせいか、批評的に未開拓の土地すぎて踏み入るのがめちゃくちゃ楽しい。


一方その頃MIGHTY WARRIORSは湾岸地区で着実に勢力を伸ばし続けていた…

近況等、ミステリーナイトと火村シリーズ連載話


 また放置してしまいました!
 少し環境が変わったので忙しかったのもあるし、気持ち的な問題もあり、という感じでした。火村シリーズドラマ感想記事も10話まで土台が出来てるんですが、細かい部分で観返して書き直そうとか原作読み返そうとか思ってる間にあれよあれよとDVD発売まできてしまいましたね。ボックス買ったのでちょくちょく書いていきます。
 よくわからない空気に対抗するために自分に出来ることは言葉で戦うことしかないな、と……。
 あと原作に関する評論文もいくつか用意してます。最近ちょっと作家史的な発見をしてしまったのでまとめて書きたい。有栖川作品以外にも感想を書きたい小説映画等沢山あって困ってます。FEサイファの話もしたいです。文章を書く時間と集中力が欲しい……



 近況としては、今夏もE-pin企画さんのミステリーナイトに参加してまいりました。
ミステリーナイト2016|とり残された学園:ミステリーナイト公式サイト[Mystery Night]
 個人的には4年目の参加になります。前年はまさかの有栖川有栖回(!)であり、参加メンバーも今までになく多かったのですが、残念ながら納得のいく結果にならず悔しい部分があり。今年は4人での参加だったのですが、いつになくスムーズに捜査が進行、犯人もトリックも殆ど納得がいく状態で10分前に提出が終わる快挙で、なんと一緒に参加した後輩が最優秀新人名探偵賞をいただくまでになりました。感涙!
 まさか身内から受賞者が出るとは思っていなかったので本当にびっくりしました。おめでとうございます…… 全員で解いていったので、他のメンバーも数点差くらいだったのだと思いますが、これはもう来年自分自身も入賞狙うしかねえな!? と思ってしまいますね。是非来年こそ有栖川ファンの底力を見せつけたいと思います(笑)

 アダルティな(?)前年とうってかわり、今年は学園を舞台にした物語でした。閉ざされた男子寮に伝承と祟りというめちゃくちゃテンション上がるお膳立て。といっても過去の事件を回想する形なので(ミステリーナイトにはありがちですが)役者さんは割といつもの面子の方もいらっしゃったりしました。
 同行メンバーの間でも話が出ましたが、例年になく「怖い」話だったと思います。話の筋はきっちり謎が解けるミステリでありながら舞台という形でこうもぞわーっとする後味をぶつけてくるのか! と思いました。脚本・演出両面で非常に工夫を感じました。去年のプロジェクションマッピングが凄かったので今年はどうかな、と思っていましたが、全然面白かった!!!

 というわけで、同行してくださった皆さんありがとうございました。お手数おかけしてしまってすみません。来年もやるとしたらもう少しちゃんとやります(反省)
 ところでミステリーナイト大阪の会場って中之島のリーガロイヤルなんですね、中之島のホテルで謎解きなんて『鍵の掛かった男』じゃあないですか。いいなあ大阪!

f:id:h_shibayama:20160818185627j:plain
 ホテルメトロポリタン朝食バイキングといえばこのオムレツ。今年も美味しかったです。
 来年も楽しみにしております。


 ついでに火村シリーズ連載の話。
 ドラマ化で熱が上がったこともあり、リアルタイムで読ませて頂いてます『狩人の悪夢』。単行本待ちの方も多いと思うので、本筋のネタバレにならない程度にちょっと感想を。
 ミステリ部分については伏せるとして、これはかなり火村シリーズの転機になりえる作品になる予感がします。火村シリーズのひとつの転機といえば自分としては『朱色の研究』で、これは1995年という時代にブチ当たった本格ミステリの一つの苦悩と回答の物語だと思っています。今回はそういう時代的な転機とは少し違う、ドラマ化というターニングポイントなのかな、と。

 ドラマ版は観ての通り、原作版では継続していくシリーズものとしての制約がある部分を、1クールドラマという一定の終わりを予定された媒体に転化していくために、「火村英生の謎と決断(≒成長)」という筋を加えられたものでありました(もちろん、原作版にもその要素はあります。現状話を進めにくいだけで)。
 火村英生という探偵役の核とはすなわち「かつて限りなく殺人という罪に接近したが踏みとどまった」「だからこそ一線を超えようとする犯罪者を許さない」部分であり、火村シリーズの思想性である「人は誰しも犯罪者になりうる」(→『46番目の密室』冒頭)はその核に繋がる部分です。火村シリーズに出てくる犯罪者が良くも悪くも特殊な存在でないのは、そういったテーゼに基づくものでしょう。
 ドラマ版はその核に対し一つの思考実験を行いました。それは「火村の眼前に再び他の方法ではどうにもならない悪が顕現したとき、火村は人を殺そうとするのか?」という部分です。ドラマ10話と特別編を通して火村が辿り着いたのは、過去の自分とは異なる道、すなわち犯罪者を生かす道でした。原作でも『女彫刻家の首』(『スイス時計の謎』収録)ラストなど、「犯罪者を生きて法の裁きに引き摺り出す」ことを重視しているのはわかりますが、では過去の再演となったとき、火村は果たしてどんな選択をするのか? というのがポイントだったと思います(これに関しては原作でも気になるところです)。ドラマ版の火村が選んだ道は「過去の自分と同じ轍は踏まない、ただしそこで終わりではなく、自身の『殺意』という怪物には一生を懸けて付き合っていく」というほぼ完璧なアンサーでした。

 この「選択」は火村シリーズの裏テーマの一つでないかと最近考えているので別の機会に文章にしたいのですが、それはさて置いて。そうした火村の「選択」を主軸に据え、さらにまさしく火村の「二択を拒絶する第三の選択」が核となる『ロジカル・デスゲーム』を最終話に持ってくる慧眼には驚かされましたが、では翻って原作はどうか。前述の通り、原作版で火村の闘うべきテーマに対し、ドラマ版は一つの答えを見出しました。物語とはすなわち現実に対する解釈であり、ドラマ版自体が原作版に対する一つのアンサーとなりえる展開といえます。
 自身の突き詰める問いに対し一つの答えが出たことを、有栖川は真摯にも受け止め、更なる答えを返すべく始まったのがこの『狩人の悪夢』ではないか――というのが、自分が受けた印象でした。

 題名から同様の印象を受けた方も多いと思われますが、『狩人』は犯罪者を狩る火村自身のこと、『悪夢』とは殺人の悪夢を思わせる題名からしてクリティカルです(『鍵の掛かった男』が梨田と火村のダブルミーニングであったように、『狩人の悪夢』はナイトメア・ライジングと火村のダブルミーニングになるのでは)。実際に作中で既にその辺に触れられており、更に火村自身の危うさに突っ込んだ話になっているので、個人的には「狩人が獲物を狩るのは目的か手段か=火村にとって目的と手段が逆転してきてないか?」の話になってくるのではないか、と考えています。火村シリーズとしても、ミステリにおける名探偵論としても重要な問いではないでしょうか。
 そう考えて読むと白布施の設定も「『46番目の密室』の真壁の反転かなぁ」と思わされたり。

 直接ドラマ版のネタを拾うこともできただろうに、そうした表面的なやり方でなく(それっぽいのもありますが)核を尊重した形での「答えに対する答え」としての『狩人の悪夢』だとしたら、有栖川はやっぱすげえよなあ……エレガントだなあ……と思います。

原作ファンがドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第六話・第七話を観ました

 こんばんは。相変わらずノロノロ更新のドラマ感想ブログと化しています。
 ドラマといえば、今期は『火村英生の推理』以外にもいろいろ観ております。普段あまりドラマをリアルタイムで観ない人間なのですが、何の因果か昨年末からテレビの前に居座る時間が長くなってしまいました。やっぱりサスペンス・推理モノが多いのですが、演出の違い等較べてみると面白いです。ドラマといえば『シャーロック』の映画を観に行くためにドラマ版3シーズン一気見とかもしました。映画面白かったですね!

 というわけで『火村英生の推理』感想です。相変わらずドラマと原作のネタバレに触れております。今回は前後編なので、二話まとめて。引用の範疇で画像も掲載しつつ感想を追っていきます。


☆6話『朱色の研究(前編)』・7話『朱色の研究(後編)』

 原作は角川書店『朱色の研究』より。

朱色の研究 (角川文庫)

朱色の研究 (角川文庫)


 前の記事で朱色の研究好きと書きましたが、そんな自分が唸らされるとても良い回でした。
 褒めたい部分は沢山あるのですが、延々書き連ねているときりがないので困ります。


 まず、今回のドラマが原作をどう編集したのかという点について、二つのことが言えると思います。
『朱色の研究』を貴島朱美の(成長)物語として再構成した
作品を「夜明け前の殺人」「黄昏岬殺人事件」「真夜中の放火犯」の三つの要素に分け、その相関で物語を進めた


 前者に関して。原作『朱色の研究』におけるキーパーソンであり、事件解決の重要な手がかりを握る朱美をフィーチャーすること自体はある種当然の話なんですが、ドラマ版では彼女をシリーズ通してのレギュラーキャラクターに据えたこともあり、より彼女のパーソナルな部分の話として構成されているように感じます。
 この采配、原作の時点で彼女が好きな自分としては単純に嬉しかったということもありますが、物語自体に一本の確固たる軸を付与すること、また「自分自身の過去のために探偵行為を行う火村が、その過程で(意図的かどうかは置いておいて)救うことのできた人間」にスポットを当てること、そういった面で非常に興味深い選択であったと感じます。後者に関して、ドラマ版の火村は内面の葛藤に注力して描かれているため、より重要性が高くなったのではないでしょうか。

 この物語の中で、貴島朱美という人間に与えられた役割は「トラウマの克服と成長」という精神分析的主題でしょう。過去に遭遇した事件から、夕焼けのオレンジ色に共感覚的な恐怖症を持つ朱美が、事件を経て自身の見たものと向き合い、それが事件の解決に繋がっていく――というのが、原作での切ないながらも前向きなラストシーンに繋がっていく一本のストーリーラインとなります。
 ドラマでは、前フリとして各話で朱美の日常生活とそこに見え隠れするトラウマの片鱗が少しずつ描かれていく構成で、視聴者に関心・感情移入を促す色合いが強くなっていたように思います。ちなみに、ドラマ一話の時点で夕暮れのシーンにはオーバーレイのようにして炎が燃え盛る様子が重ねられており、原作を知らずともじっくりと見ていれば朱美のトラウマの正体にはある程度推測できるようになっています。

f:id:h_shibayama:20160313215629j:plain
©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』一話より

 原作では、この「トラウマの克服と成長」は、朱美が事件の調査を依頼した火村に自身の悪夢について打ち明け、その悪夢を現実の反映と考える火村の推理によって犯人の前に真相が明らかにされる構造です。物語後半、火村が自身もたびたび悪夢に悩まされること、そしてその内容が殺人を犯す夢であることを明かし、朱美からの告白を引き出すシーンは、印象的に感じる方も多かったのではないでしょうか。
しかし、ドラマでは悪夢の話は比較的早い段階でなされ、事件解決の場面に至り、火村は関係者の前で敢えて朱美の悪夢を組み込んだ推理を披露し、関係者たちに否定させることで、逆説的に朱美から悪夢が現実の反映であるという自認を引き出すという戦略をとります。
 荒唐無稽なやり口に見えますが、ドラマ版が「貴島朱美のトラウマの克服と成長」に的を絞って構造を練るなら、より確固たる手法で朱美に過去からの逃避を克服させる必要があったのでしょう。作中で火村と有栖川が「カウンセラー」という比喩を用いていましたが、受け入れがたい過去を自ら認めるように差し向ける、という手法はより精神分析的であるように思えます。
 朱美の成長、という観点から言うと、物語ラストシーンの会話の差異も印象的です。

「どうしてみんな、夕陽がきれいだと言うんでしょう。暗い夜がくる前触れなのに」
 朱美は眩しくてならないというように目を細めながらも、顔をそむけない。
「夕陽は没落の象徴でもあるし、確かに闇の前触れでもあるけれど、それだけでもない」火村は言う。「生まれ変わるために沈むんだから」
 朱美の唇が動く。
 ――生まれ変わるために沈む。
 私は、何かで読んだことを思い出した。
「ねぇ、貴島さん。火星行きのロケットに乗れるようになったら、みんなで出かけませんか? あそこでは、夕焼けは青いんだそうですよ」
有栖川有栖『朱色の研究』文庫版p403)

「貴島君。私は有栖川にカウンセラー失格の烙印を押されたが、聞いてくれるか?
君のオレンジ恐怖症は、実体験の恐怖と、それに対して自分を責める罪の意識が根底にあった。だが今回、君はそれを受け入れることができた。
事件が解決したからって、君の抱えている全てが解決したとは思わない。でも、あの太陽が沈めばまた新しい一日がやってくる。
君にとって、新しい一日が」
「私もいつか、夕陽をきれいだって思える日がきますよね」
(ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第七話)


 自分自身気付かなかった部分ではあるんですが、原作での青い夕焼けのくだりが使われなかった理由について、「ドラマ版の朱美は今まさにトラウマである朱い夕焼けと向かい合おうとしているからではないか?」という感想をおっしゃっている方がいて、ハッと気づかされました。
 原作のラストは「これから過去と向き合っていくための第一歩」のような、朱美が向き合うべき今後の長い道のりを想定させる余韻を残すラストであり、一作完結の長編小説として効果的に演出されていますが、ドラマのラストでの朱美は自分のトラウマとしっかり向き合い、涙を流しながらも立ち向かっていくフェイズにまできているんですよね。
 連ドラという媒体ならではの良い独自演出だな、と思います。ここ、台詞を突き合わせて読んでみると、火村の台詞なんかは原作とドラマで同じ意図を示しているのがわかりますし(ドラマは判りやすく説明的ですね)、それに較べて朱美の受け止め方はだいぶ異なるようにとれます。先の話になりますが、8話での朱美の行動を考えると、この話で彼女は過去を受け入れ成長した、と見せたいのがよくわかると思います。


 後者の三要素について。
 漫画版では「夕陽丘殺人事件」「枯木灘殺人事件」と銘打たれて前後編になっていたように記憶していますが、この作品を評するとき大体の人は「過去と現在の二つの事件が相関して……」という説明をすると思いますし、そういう構造として捉えるものでしょう。
 ドラマ版では前述のとおり朱美を主軸に話を進めるに伴って、朱美のトラウマの一因となった放火事件をクローズアップし、三つの謎として火村・有栖川と対峙させるようになっています。「夜明け前の殺人」「黄昏岬殺人事件」「真夜中の放火犯」というネーミングからわかるように、これらは全て時間軸に紐点けされています。日が落ち夜が訪れやがて夜明けを迎える、というのは、「落陽の後には新しい日がやってくる」というラストシーンの台詞にもかけられているのでしょう。
 また、そもそもこの『朱色の研究』という作品自体が、過去と現在の事件が絡み合う、時間軸を意識した作品であることにも留意したいです。ドラマ版ではより強く「過去と現在が入り混じる」イメージが用いられていたと思います(鍋島と緒方のエピソードなんかもそうですね。過去の無念を現在で晴らす、というリンク。また、このくだりは「探偵は死者の声を聴く」という原作での言及も意識したものではないかと思います)。
 三つの場面が目まぐるしく入れ替わる推理シーンなどは、その最たるものでしょう。このシーンは自分の周りでも好評でした。元ネタを探そうと思えば探せる演出かもしれませんが、要素の組み合わせと意味づけによって非常に独自性の高い演出に仕上がっていたと思うので、その辺に言及しておきます。

 推理披露シーンでは、登場人物を残したまま三つの場面が次々に転換していくつくりです。
 まずは、現実に関係者たちが存在するであろう別荘の一室。

f:id:h_shibayama:20160313215631j:plain
©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』七話より

 次に、事件の再現シーンで使われる黄昏岬。

f:id:h_shibayama:20160313215632j:plain
©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』七話より

 事件を再現するための演出であると同時に、朱美が囚われた過去の象徴でもあります。


 最後に、火村が関係者たちに解説するときに使われる教室。

f:id:h_shibayama:20160313215628j:plain
©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』七話より

 黄昏岬のシーンが朱美の領域だとするとこっちは火村の領域。
 「犯人からの挑戦に応える探偵」という構図で進めるにあたっての演出でしょうか。
 スクリーンに映し出された火事の光景が火村の姿に重なるカットが印象的です。原作でもそうですが、朱美と火村はネーミングからも判るとおり物語構造上対になる存在であり、似た要素を持つ登場人物です(ドラマ版はさらに対比構造が多いですが)。そのへんを意識してるのかな。

 この三者のシーンが目まぐるしく入れ替わることで、過去の事件が現在の事件に浸食してくる構造、また朱美の夢は果たして現実なのか、というくだりの不安定感が巧く描かれています。ただこの演出をやりたかっただけじゃなく、しっかり物語上意味のある根拠のもと使われている、ということでしょう。美術系の人と観てたら「これシュールレアリスムっぽい表現だね」とおっしゃっていて、夢と現実が混濁する感じかなるほどなと。
 多分演出だけだったらこういうやり方をするドラマはいくつもあるのだろうけど、このドラマは割と指針が明白な気がします。モーションタイポグラフィも「本格ミステリドラマをやる上での視聴者への適切な情報開示」の意味合いが強いですね。それ系の演出だと『シャーロック』が引き合いに出されがちなんですけど、あれは主人公であるシャーロックの見ている場面を再現するための演出、という色合いが強いので、意図が違うよね(そういう意味で『シャーロック』っぽいのが今期の『スペシャリスト』ですね。あれも宅間の見ている光景を視聴者に提示する意味合いが強いと思う。火村と関係ないけどおもしろいです)。このドラマと意味合いが近いのは日テレ繋がりになるけど『ST』あたりかな?


 原作でも『朱色の研究』は火村英生という人物造形の核に迫る話ではありましたが、ドラマでもクライマックスに向けて布石を打ってきている感じがしました。例えば小野との犯罪談義。

「コマチさんも、一度目の撲殺が衝動的ならば共感できるでしょう。
できないというならそれは嘘だ。
人間誰しも一瞬の怒りや憎しみ、つまり殺意の種を持っている。それ自体は犯罪ではない。
現に、憎しみをもって藁人形を打ったところで、法では裁けない」
「肯定はしません。だが、殺意を持つこと自体は否定しない。だからこそ、私は実際に殺意を行動に移す人間を許さない」
(ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第七話)

 この火村の台詞自体は至極妥当で、内心は法で裁けないという当たり前の話をしているんですが(内心が裁けてしまうとディストピアSFになるんですよ)、恐らく『46番目の密室』冒頭シーンと同様の意図があると思われます。火村シリーズ自体の「人は誰でも犯罪者になりうる」「犯罪者は特殊な存在でなく、我々と同様の人間」というテーゼの象徴ですね。後の平泉成(すいません役名忘れました)の台詞からも、火村のそのへんの掘り下げがされていてよかったです。刑事ドラマにおける「犯人を追う刑事は犯人と同様の思考をすることが必要」メソッド好きなんですよね……。

「確かに、あんたの言うように、彼の眼の奥には冷たい冷たい光があった。犯罪者と同じような。
しかし、その狂気みたいなもんは、犯人を必死に追いかけるもんにも宿る。
今の鍋島君やあの日の緒方君、そしてあんたの眼にもある。わしはそれを執念と呼んどる」
(ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第七話)

 火村の犯罪捜査にかける情熱を「執念」と評してくれたのは本当に原作ファンとして褒めたたえたい。
 ただテレビドラマという体裁上、殺意を安易に肯定するわけにもいかないですし(笑)、また原作を知らない視聴者へのわかりやすいスタンスの説明になっているのかもしれませんね。あと、小野と火村の立ち位置の違い、考え方の違いは一話から出ていましたが(一話感想でも46番目の密室の話をした気が……)、ここに来て明白化する意味もあったと思います。規範的・倫理的に正しくあろうとする小野と、内心がどうであれ実際の行動を重視する火村の差。
 詳しく言うと原作のネタバレになるので控えますが、最終回へのブラフの意味もありそうです。制作陣としては、火村を「あちら側」に行きそうな存在に見せたいのですから(そして、それをどう裏切るかが最終話の楽しみなんだよな……)。

 前の記事で、ドラマ版火村の「犯罪者は憎むが犯罪を愛する」設定が明瞭でなく指針が見えにくい、という話をしました。しかし、ドラマを追っていて気付いたんですけど、おそらく「この犯罪は美しくない」という台詞自体がブラフというか、「火村が何故そんなことを口にするのか?」という謎として制作側が視聴者に提示したかったものではないか、と。9話予告ではっきり「美しい犯罪などない」と言い切っているあたり、この台詞って「全ての犯罪は美しくなどないものを確認する」ためのものなのではないか、と思えてくるんですよね。
 ドラマから観た人は純粋に「美しい犯罪とはなんだろう」と考えますし、原作を知っている人は「火村が犯罪に対して美しいという視点を持つのか?」と考えるでしょう。おそらくその反応すら想定済みで、「じゃあなぜ火村がこんなセリフを口にするのか、お前たちが当ててみろ」と言われていたのではないでしょうか。……という「キメ台詞ミステリ説」を提唱しつつ、次の話を楽しみにしたいです。


 「夕景モチーフなだけあって各シーンのライティングにものすごい気を遣ってる」とか「香水のくだりは6話ブラフかつ7話真犯人に繋がる要素だし双頭の悪魔リスペクトだしめっちゃ細かいとこ仕込んでくるな」とか他にも言いたいことがめっちゃありますが、この辺にしておきます。
 本当は動機の話にも触れたいんだけど、『朱色の研究』の動機の話はそれだけで記事一つ埋まるから……個人的には、原作のアレは「1995年的なモノ(阪神淡路大震災地下鉄サリン事件、終末論・オカルトブーム)へのミステリ的回答」だと思っているので、そういった説明が難しく時代性もあるマクロの部分よりミクロの人間関係だけに絞ってクリンナップしたのはよかったな、と。今2016年だしな……。
 今度、原作の『朱色の研究』に関する記事も書きたいと思います。大澤真幸を読まざるを得ない。

原作ファンがドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第四話・第五話を観ました

 こんばんは。
 私的なことですが、忙しかったりインフルエンザにかかったりフリースタイルダンジョンをyoutubeで一気見したりしていたので感想を書くのが遅れてしまいました。別に誰に強制されているわけでもないけどとりあえず謝罪。あとフリースタイルダンジョンめっちゃ面白いので観ましょう。日本語即興ラップすげぇ……言葉の力すげぇ……

 というわけでドラマ感想です。相変わらずドラマと原作のネタバレに触れております。


☆4話『ダリの繭』

 原作は角川書店『ダリの繭』より。

ダリの繭 (角川文庫―角川ミステリーコンペティション)

ダリの繭 (角川文庫―角川ミステリーコンペティション)


 はやい(確信)
 原作の『ダリの繭』って、調査→事実判明→調査→事実判明の地道な繰り返しの、ドラマでいえば2サスっぽい構成で、なおかつ登場人物全員が秘密を抱えていてそれが一つ一つ紐解かれていくことで真相に近づいていくというミステリなんですよね(その「登場人物全員謎を抱えている」図式が都市小説的、みたいな話は読書メーターで300回くらいした気がする)。逆に言えば、そういう事件を複雑化させている要因さえとっぱらえばトリック・ロジック・真相は割とシンプルな話なんですよねぇ。
 そしてその根幹のミステリ部分だけやりました、というドラマだった気がする、いい意味でも悪い意味でも。いや、一時間枠でやるならこれが限界だと思います。かといって前後編に分けるほどの話でもないので、すごく微妙な扱い。個人的には満足ですが、足りない人もいるだろうなぁ。アリスのトラウマを話の筋に持ってきたのは割といいなと思いました(でもそれならスイス時計やってほしかったな~)。
 ドラマのテンポといえば、今期なんか割とサスペンスドラマを観てるんですけど作品によるテンポの差ってすごいありますよねぇ。火村英生の推理はハイテンポでズンズン話を進めていくタイプで、スペシャリストとかもそういう感じを受けます。逆に相棒とか科捜研の女みたいな定番シリーズはペース保たれてますよね(話にもよるかな?)。どっちがいい、とかではなく、対象層とかでも違うんでしょうね、面白いな、と思う。

・冒頭
 ドラマでは特に説明はありませんが、原作では火村の誕生日&アリスの新刊出版祝いでした。まあ放送時期からして誕生日ではないもんなぁ。仕方ないね。

「では」
 友人はシャンパンのグラスを目の高さまで上げた。
有栖川有栖の最新の後悔に――」
 私はよく冷えた自分のグラスを取って、彼に言い返す。
「老境にひと足早く近付いた親友に――」

(『ダリの繭』)

 ここすき(かっこいい)

・フロートカプセルは割とあんな感じらしいゾ
http://courrier.jp/news/archives/3544
 ちょっと試してみたい。

・アリスのトラウマ
 という名のサブカル文系ボンクラオタクみんなのトラウマ。
 未だに読むたびに自分のアレコレが蘇ってきてつらくなるやつです。
 引用しようと思ったけどむっちゃ長いので原作読んでという話。この場面で重要なのは「現在は言葉によって飯を食ってる有栖川有栖という人間の根幹に、言葉で相手を救えなかったどころか心を動かすこともできなかったトラウマがある」という部分でしょうね。つらい……
 ドラマでは前回の「事実は小説にしない主義」の引きからここでアリスの物語をやっておいて、視聴者に「この人は何者なのか?」を提示する意味があるんでしょうね。語り手でない分、ドラマでのアリスの人物像はわかりづらくなるわけですから。火村の物語はドラマシリーズ自体のインセンティブになるので、必然的に後半にせざるをえないですしね。

 私の小説。私の繭よ。

 お前らの繭よ……

 あと窪田正孝の演技力が如何なく発揮されているシークエンスでもありました。やっぱりすごいですねこの人!


・謎の少年
 シャングリラ関連人物に恨みのある快楽殺人犯?
「この犯罪は美しくない」模倣といい、物語構造上火村と対になる存在のようですが、それがどう物語に影響してくるか。少年は殺人に悦びを感じているようですが、それがずっと続くのか。火村もまた殺人に際して薄暗い悦びを感じてしまう人物なのか、はたまた対にはなるがその一点で決定的に違うという形で物語を運んでいくのか。今後に期待ですね。
 
・うなされてたら起こしてやろうか
 原作より突っ込んだ話をしますね……
 やっぱりドラマ版は原作とはまた違った場所を目指して走っているのかな、という感触。というか、そうであって欲しい。ドラマはドラマならではの地平が見たい。

・新婚ごっこ
 ノーコメント!ノーコメントです! サイファ祭のサイン会待機列での話はやめろ!
 それより「知っとるか、俺な……」の続きとは……ここがブツ切りなのは意図的なのかミスなのか。

・推理シーン
 今回の火村は煽りよる。
 原作の占い師カチコミシーンを意識した戦術の一つ+優子からのあの一言を引き出すための物語上の演出、更に次回で火村の異常性というか狂気を描く必要があるのでそのための前準備、という意図でしょう。映像で観ると破壊力が高い。

・「楽しいですか?」「こうするしかないんです」
 ブ、ブラジル蝶ーッ!
「こうするしかないんだ」のくだり大好きなんですけど、原作では決定的な矛盾を突かれどこか追い詰められての一言だったのに比べて、ドラマでは自嘲の笑み混じりの自虐的な一言で、ニュアンスは違うんだけど探偵としてのスタンスを表す一言としては共通していて、斎藤工の演技力も含めてここはすごいなあと思った。

「あんたがハンター気取りの名探偵だってことだよ。犯罪者を蝶々みたいにコレクションして喜んでる正義の味方か。刑事でもないのにおせっかいな男だ。権力に飢えた下衆じゃないか。私の知り合いの男はな、あんたのことを化け物だと言ってたよ。天才の譬えじゃない。ただの化け物だ。当事者でもない、警察官でもないのに、犯罪の中に飛び込んできて、犯人を狩り立てて喜ぶなんてこと、まともな神経ではないものな」
 にらみつけられたまま、火村はしばらく黙っていた。が、やがて――
「こうするしかないんだ」

(『ブラジル蝶の謎』収録『ブラジル蝶の謎』)

 優子に「楽しいですか?」と訊かせるくだりは、『モロッコ水晶の謎』を思い出した。

「犯罪学者って、犯罪のことばかり考えているんですか? 研究ですから、そうですね。それはその……暗いというか、気が滅入って、つらくないですか?」
(中略)「世の中にはもっと楽しそうな研究がいくらでもあるだろうに、何故そんな嫌なものばかり見つめるのか、と思うかもしれないね。でも、仕方がないんだ。人は、楽しいことを選ぶんじゃない。選ばれる場合もある」

(『モロッコ水晶の謎』収録『モロッコ水晶の謎』)

 火村が「そういうやり方でしか生きることが出来ない」探偵役、ということを端的に表しているシーンなので、ドラマ版のこの場面とも共通点はあるかな、と。余談ですが犯罪学は楽しいです(実際に犯罪の現場に踏み込んだら楽しくないかもしれない)。

 ドラマ版でいいなあと思ったのが、ラストでアリスが優子にかけたこの台詞。

「鷺尾さん。自分のことを、自分の過去を、否定しないでください。……この間、俺に言ってくれた言葉です。本当に、ほんまに救われました。でも、今のあなたに、かけるべき言葉が見つかりません。また、ずっと考えます」

 これはもちろん自分自身の過去にもかかっている台詞で、だからこそ原作と同等に、もしかしたらそれ以上に重い台詞だな、と思いました。この「ずっと考えます」というのは、つまり自分の過去とも逃げずに向き合い続けるという意味だし、アリスにとって「書き続けます」と同じ意味なんですよね。原作における『スイス時計の謎』での解決を、よりわかりやすい形で表に出した台詞だなあ、と思います。火村にしろアリスにしろ、決して答えの出ない問題を考え続けて、戦い続けなきゃいけない物語なんだよな……


☆5話『ショーウィンドウを砕く』

 原作は角川書店『怪しい店』収録『ショーウィンドウを砕く』より。

怪しい店

怪しい店


 原作からして結構複雑かつハイコンテクストで好きな回なんですけど、ドラマ版も割と好きな内容に仕上がっていて、観ていて楽しかったです。コロンボや古畑を例示するまでもなく、ドラマにおける倒叙はやっぱり臨場感が段違いでエキサイティングですね!

・諸星沙奈江
 原作では、この話は「サイコパス診断でそれっぽい結果を出してしまう(ニアサイコパスっぽい)犯人/その上を行く異常者の探偵」という構図がキモになっている部分がありましたが、ドラマではさらにレクター博士のような存在であるっぽい諸星が加わることによって、その辺に説明が付加されている感じはありましたね。

「あなたはこっち側の人間だ。何故まだそっちにいる?」
「俺は犯罪者が憎い。そこにどんな理由があろうと、理性の淵から落ち、そっち側に行ってしまう犯罪者が」
「それが、少年や理性を持たぬサイコパスでも?」

「こっち側」「そっち側」という概念、というか犯罪者とそれ以外の人間への線引きは原作でも出てくる話で、「彼岸へと飛び立った犯罪者を撃ち落とす」のが火村の信念。だとしたら、そもそもその線引きすらなく、理性の境界など用を為さず殺人を犯すサイコパスに対して、火村英生はどう戦うのか?というのは割と突っ込んだ話をするなぁ、という感想。原作でもその辺はそこまで突っ込まれていない話なので。
 サイコパスって良心や罪悪感、共感能力の欠如したタイプの人間であって、理性がないかどうかっていうのは微妙っすかね……とは思ったけど、まあここでは「己の意のままに殺人を犯すことを是とし、それに対して理性の歯止めを持たない」という定義なんでしょうなぁ。
 ドラマ版の火村のキャラ造型は、その辺の理性/欲望の葛藤がキモになってくるのかな、というのがここに来てようやくつかめるようになってきた気がします。原作でもその要素はありますが、ドラマ版はより強く、はっきりと打ち出されているイメージ。そして、欲望の部分を引き出すのが諸星の存在なんでしょうね。となると、火村はクライマックスで諸星を殺そうとするのかなぁ(PSYCHO-PASS一期かな?)。
 原作の時点で、「火村はもし過去と同様の殺したいと思うような相手に出会ったとき、果たして同様に殺意を抱くか」という疑問は持っていたんで(そして答えは出ていない)、ドラマでその思考実験が見れるなら面白そうだなと思う。

 この話の犯人の動機に対するちゃんとした解釈は原作でもドラマでも出来ていないので(原作の感想で「持てるももへの持たぬものの複雑な感情」的なことは言及した気がしますが、それだけじゃないよね)、言及は控えますが、ことドラマ版に至っては「動機なき殺人」と解釈するのもありかな、と思う。火村とアリスの「人が人を殺す心理はいつの世も変わらない」→「明白な動機だけが殺害理由ではない」という会話のくだりがあったね。
 うーん、ドラマ版だけでなく原作の感想もちゃんと文章にまとめたくなってきたぞ……。

「今日の昼、何を食べましたか?」という火村の問いがこの話の根幹になっており、この質問一つで犯人の行動範囲や金遣い等を割り出し、犯人にかける罠を割り出す……という構成なのですが、ドラマ版では移動方法等わかりやすく他の要素で補足も入ってましたね。

 ドラマ版演出としては、宝くじ=将来への希望の象徴というモチーフが冒頭からうまく使われていて、それゆえにそれを何のためらいもなく破く犯人、というところがゾッとする演出でよかったです。原作からして死ぬほど自分のことしか考えてねぇ犯人だったけど、ドラマ版は狂気が付加されていてよかった。あと、犯人が過去を回想するときの演出が、火村が推理するときの演出に似ていたのは意図したものだったらすごいなぁ、しっかり異常者の論理で対比してあるのかなぁ、と思いました。
 それにしても斎藤工、随分探偵役が板についてきたなぁ。この話はいうなれば異常者VS異常者をやらなくてはいけないわけで、宅麻伸演じる犯人に相対するにふさわしい底知れぬ闇の深さが巧く出ていたように感じます。「クサい芝居要りませんから」以降とか鳥肌立ちました。原作でも犯人に対する火村とアリスの正反対の反応が対になってましたが、ドラマ版でもはっきり差異が描かれていてよかった。なまじアリスが正論で啖呵切った分、原作より虚無感が増す……。
 あと愉良役の人がメチャクチャ可愛くていい感じで世間知らずの美人感出ていてよかった。



 次回は朱色の研究!
 火村シリーズで一番好きな作品なので楽しみです。原作に関するレビューも書きたい。

原作ファンがドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第二話・第三話を観ました

 こんばんは。
 前回、有栖川有栖原作ファン目線のドラマ一話の感想を書いたところ、なんか知らないけどPV数が跳ね上がる事態が発生して若干ビビっております。元々文章を壁打ちするためのブログだったのですが、見ていただけているのなら何よりです。もっとちゃんとした書評やレビューを書ければいいんですけどね。頑張ります……。
 というわけで、元ネタ羅列大会はアレで終わりにする予定だったんですが、ドラマの感想自体は追って書いていこうかな、という気になりました。とりあえずリアルタイム+huluで追っているので、今後も原作ファン目線の感想考察等ちょくちょくブログに書いていこうかと思います。
 相変わらずドラマと原作のネタバレに触れておりますのでご注意を。

☆というわけで二話『異形の客』

 原作は『暗い宿』収録『異形の客』から。

暗い宿 (角川文庫)

暗い宿 (角川文庫)


 作中で火村が苦戦していた暗号は『英国庭園の謎』の表題作から。

英国庭園の謎 (講談社文庫)

英国庭園の謎 (講談社文庫)


 一話の『201号室』といい、他短編のおいしいとこ取りをするなあ、という印象ですが、『英国庭園』は暗号がちゃんと殺人の謎に繋がるお話なので、ドラマから読んでも全然イケるのがニクいです。
 この暗号のシークエンス自体が事件の解決に繋がっていたり、あとは女子学生の会話が醜形恐怖症のくだりに繋がっていたり、伏線の張り方地味にしっかりしてますね。というか今観返しているけどむちゃくちゃ丁寧に伏線張ってあるな被害者宅のレコードとか……
 あと映像の叙述トリックもありますね、冒頭の事件の犯人を相羽とミスリードさせようとしていたりとか。

 話が飛びますが、自分は連ドラ化決定時に「連ドラなら一話か二話で『ブラジル蝶の謎』だろうなぁ」と思っていたことがありまして、その理由が「火村英生の探偵行為に対する追及と回答があるから」だったんですね。「人を殺したいと思ったことがあるから」という行動原理を提示しておいて、それに対するツッコミと掘り下げがあり、その行動原理がどれだけ重いか示されるのが『ブラジル蝶』だと思っていたわけです。
 それに対して、この連ドラでは『異形の客』が同様の効果を発揮していたように思います。終盤の犯人と火村の問答は原作からとても好きなくだりだったのですが、かなり忠実に再現されていました。つまり、ドラマ版でも火村の犯人に対する近親憎悪にも似た複雑な感情は健在である、というのを早い段階でキッチリやってくれたわけですね。

「自首するんじゃないよ」
(中略)「シロなら君はもちろん自首しない。だが、クロだったとしても、自首なんてしなくていい。一人を発作的に刺して死に至らしめ、もう一人を計画的に殺害しながら平然ととぼけられる人間に自首は必要ない。逮捕状を携えた刑事の訪問を受け、手錠を掛けられて引き立てられるのがお似合いなんだ。いずれにせよ、君は自首してはならない」

「正義の味方、か」
(中略)「さぞや忙しいことだろうね。仮面をかぶったまま、大勢の犯罪者が街を歩いているよ。早くみんなひっ捕らえなくちゃね」


 ドラマ版の場合、ただ単純に探偵行為の理由に対する追及と視聴者への説明に留まらず、後者の台詞がシャングリラ十字軍の暗躍にもかかっているのが巧い。一話のシャングリラに関わる小野と火村の会話でも「犯罪者は彼岸の人間ではなく、自分たちとそう大差ない存在である」という原作のテーゼが暗示されていたのは見逃せないところでしょう。
 ついでだから言っておくけど、シャングリラ十字軍はドラマオリジナルじゃないです。原作に存在がある上、『白い兎が逃げる』の後書きで「彼らと火村助教授は今のところすれ違っているが、いつか直接対決をする日がくる予感がしている」と作者が言及しているくらいです。そのへんをドラマで拾っただけでしょう。「原作に女性刑事キャラはいない」と言い張る人といい、多少ググればすぐ間違いが判るようなことを平気で口に出来る自称原作ファン、有栖川有栖原理主義者としては赦せないですね(笑)。多すぎて辟易だよ!
 シャングリラ十字軍が登場する話は今話原作『異形の客』と、『白い兎が逃げる』収録『地下室の処刑』。こちらも地味に秀逸なハウダニットなのでご一読を。ドラマでやるかもしんないしね。

白い兎が逃げる (光文社文庫)

白い兎が逃げる (光文社文庫)



 一話では既視感があるなぁと思っていたタイポグラフィ演出でしたが、この話では醜形恐怖症のくだりで生きていたと思います。もっと認知されている症状かと思ったんですけど、割と「そんな病気あるんだ!」という声を聞きました。となると文字で見ないとよくわからんわけで、ドラマで本格ミステリを全うするための視聴者への情報整理のためのタイポグラフィ演出、という側面はありそうです。

 あと、この話は地味な良改変がちらほらあってスゲーと思いました。
 例えば犯人が被害者を説得した理由。原作では「金が欲しかった被害者を何らかの口実で言いくるめた」と曖昧な言及でしたが、ドラマでは「旅館の関係者の親族である犯人が、金のあてがあると犯人を旅館=殺害現場に引き入れる」ところまできっちり描いていたので(しかも関係なさげに見えた暗号がヒントになっているので巧い作り)、その辺に対して違和感がなくなっていました。
 また、原作では火村と犯人の問答の後、余韻を残す暇もなくバッサリ終わりますが(しかもこの記述だと立件までいけたのかどうかはわからないし、代議士の息子である犯人の犯罪はもみ消されるなりなんなりで不起訴になる可能性もあるんですよねぇ)、ドラマでは犯人の立場が変わったこともあってかきっちりその先まで描かれるんですよね。原作の後味悪さもいいけれど、ドラマの丁寧な描写も評価したいです。

 火村シリーズのいいところの一つに「警察が無能ではなくしっかり現実に近しい地味だが重要な仕事をしていて、そのうえで探偵が警察を全面的に信頼しているわけではなくビジネスライクな共犯関係を築いている」のがあると思っていまして、そういう「本格ミステリを現実社会に近しいフォーマットに落とし込む」リアリティが人気の理由の一つにあるんじゃないかなあと邪推しているのですが、ドラマ今話はそこをしっかり継承してのアレンジだった気がします。
 火村の犯人への指摘は直接的に犯人を逮捕に導くわけではなく、彼の推理に基づく警察の捜査が結果に結実する。探偵ものミステリで阻害されがちな地道な過程が描かれていたのはとても良かったと思います。
 鍋島の「警察は犯罪者を許すわけにはいかない」という決意表明と、それに対して敢えて「はい」と首肯を返す火村。
 ドラマ版独自の「犯罪を愛し、犯罪者を憎む」という正直わかりづらい(直球)キャラクター設定に説明なくここまで来たことは実は不満点の一つだったのですが、ここの受け答えで何か感じることがあって「自首はするな」に繋げたんでしょうか。この流れは後の地道な捜査シーンへと繋がりますし良かったと思います。

 でもやっぱりドラマ火村は信条がわかりにくいよ! 「犯罪は愛するけど犯罪者は憎む」ってどういう心理状況なんだよ! 説明してくれよ! 美しい犯罪ってなんだよ!(哲学)
 もちろんそこもひっくるめて「謎の男」として演出することで、最終話まで続けて観せようとするインセンティブの一つでもあるんでしょうが、やっぱり行動原理がわかりづらくなっていることと「犯罪者を憎む」側面があまり強調されなかったがために「自首するな」という言葉の意味付けが軽いかな、というのはちょっと思った。
 でも、これは最後まで観ないとわかんないですね。製作陣が「この犯罪は美しくない」というキメ台詞にどれだけ意味を持たせているか、そこがキモだと思います。いや他ドラマ化見てる限り何の意味もない可能性もあるけどさ……。

 いろいろ言う輩もいますけど、原作からの改変はいいんですよ。ドラマ作中で筋が通っていれば、むしろ今話の細かい部分のように功を奏する改変もありますし。ただ、ドラマ単体で見て作中できちっと解説がなされる作りになっていてほしいなあ、と強く思うし、その為ならドラマ版オリジナル火村過去回とかやってもいいと思う。だってその方がわかりやすいし。自分が原作を知らないでこのドラマを観るとするなら、そこは「原作でも描かれてないし~」って引き伸ばさないである程度ドラマ内でケリを付けてほしい。
 地の文がないだけアリスの行動原理も判りづらくなっているので、そのぶん初見の人の主人公コンビへの視点合わせが困難になっていないかはちょっと心配です。原作はアリスの語りだから視点合わせやすいんだけどね。そう考えると小野のキャラ付けはニュートラルでありがたいな(ドラマによくある探偵に批判的な刑事ってニュートラルな視点の提供者だと思っているので、個人的には有用だと思う)(原作でももっと火村に批判的な刑事が出てきてええんやで)。

 あと、犯人役の演技がとても良かった。特撮俳優がバンバン出てるらしいということは人伝に聞き及んでいますが、それもテレ朝刑事ドラマ感があっていいですね(日テレだけど)。『科捜研の女』とかね。


☆三話『准教授の身代金』

 原作は『モロッコ水晶の謎』収録『助教授の身代金』。

モロッコ水晶の謎 (講談社文庫)

モロッコ水晶の謎 (講談社文庫)


当時は学校教育法改正前だったので「助教授」表記だったのですね。火村の役職名も作中で「助教授」から「准教授」に変わり、法改正に触れるメタい言及が『妃は船を沈める』にありました。
 作中の暗号は『ペルシャ猫の謎』収録『暗号を撒く男』。短めの暗号モノで、ドラマ版だとちょっと要素を入れ替えてあります。

ペルシャ猫の謎 (講談社文庫)

ペルシャ猫の謎 (講談社文庫)


 一話・二話とも事件の筋書きと謎解き自体は驚くほど原作に忠実だった印象ですが、三話ではロジックの軸をそのままに、ガッツリアレンジを加えてきましたね。構成自体も巧い流れにしたなと思ったんですが、最初から実行犯を敢えて明かすことで視聴者の考えるべき謎を絞り、また倒叙のような雰囲気にミスリードさせてひっくり返す、というのは大胆な改変でありながら、ドラマという媒体で効果の高いものだと思いました。
 一話から観ていて思うのは、ロジックの美しさにもかかっているであろうキメ台詞に象徴されるように、このドラマは「原作のロジック重視をドラマでも大事にしよう」という制作陣の意気込みを強く感じる作りになっているというところ。
 大抵のサスペンスドラマでは犯人を当てることに重きが置かれるので、視聴者は配役から犯人を予測したり(2サスあるある)、制作側も「意外な犯人」に重きを置いて脚本を作ることが多いと思います。ただ、有栖川作品は原作からして「犯人の名前だけ当てられても、痛くも痒くもない」ロジック重視の本格ミステリ。ドラマでもそこを汲んで、「とにかく推理の過程を見せたい!」という印象を受けます。一話からして、容疑者自体は少なくて、カンで犯人を当てるだけならシンプルですもんね。
 それが本格ミステリを読まないテレビドラマ視聴者にどの程度アプローチ出来ているかはわかりませんが(「犯人判りやすすぎだろ」とか言う人はいるんだろうなぁ)、少なくとも努力は感じる。実際にドラマだけ観ている方にその辺を訊いてみても判ってくれる方が結構いるので、功を奏していることを信じたいですね。でもこれはドラマの出来云々以前に、ミステリというジャンルに対する認識問題にもなってくるので闇が深い(笑)。
 今話は実行犯を明かしておくことで、「でもそれだとおかしいぞ、じゃああの脅迫状はなんなんだ?」という疑問を軸にストーリーを引っ張って行った感じで、これは原作の地道な展開をきれいにまとめ上げており効果的に思えました。

 原作で地味に好きなのが捜査一課特殊班(いわゆるSIT、大阪府警だとMAATという略称らしいですね)が地道に誘拐捜査やってるところなんですが(SITが地味な仕事やってるのがとてもいい)、流石にドラマではレギュラー面子でしたね。残念。

 アリスの「事実は小説にしない主義」をここで持ってくるのはいい仕事。犯人との対比も決まりますし、今まで1・2話では漠然としかわからなかった有栖川有栖という人物の人となりがようやく垣間見えるワンシーンでもあります。また、次回が『ダリの繭』というアリスをがっつり掘り下げる回なので、そこに繋げる意図もあるのでしょう。

「いいえ。現実の犯罪とミステリは別物ですから。私は、百パーセントの虚構を書くのが好きなんです」

(『モロッコ水晶の謎』収録『ABCキラー』より)

火村の講義にアリスが潜り込むのは『46番目の密室』冒頭からでしょうか。やたらカレー食ってるのも大学時代のエピソードからですかね。こいつらいつもカレー食ってんな(と本人も『菩提樹荘の殺人』で言っていた気がする)。