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幻想俯瞰飛行

生存記録を兼ねて長文を書くためのブログ。文章読んだり書いたりします。 

幻想を俯瞰して飛べ――有栖川有栖『46番目の密室』

新装版 46番目の密室 (講談社文庫)

新装版 46番目の密室 (講談社文庫)

ここに、一つの幻想がある。
それは箱に似ている。密閉された箱の中身は、誰も知る由がない。けれどその箱に惹かれるものは後を絶たず、ゆえに多くの人々がその箱の中身を知ろうと画策してきた。
あるものは箱を持ち上げ、動かしてみた。あるものは箱に光を当て、内容物を透かそうとしてみた。あるものは箱を壊そうと、鉄槌を振り上げた。あるものはもはや箱などいらぬと、それを蹴り飛ばしてみせた。
けれど、箱の中身はてんで判らないままだ。いや、判らない、というより、判りはするが答えは出ない、というべきだろう。なぜなら、百人が箱に触れれば百人が違う中身を想定するのだから。
結局、あまねく全ての人間が納得する答えは出ないままだ。箱を開けてみせたら、一体どんな光景が待ち構えているのだろう。そこには楽園が広がっているのか、あるいはパンドラの箱が如く災厄と絶望が零れてくるのか。答えが出るときは、恐らく来ないだろう。私たちは、箱の中身について考えることは出来ても、直接それに触れることはできないのだ。
その幻想の名を、<本格推理小説>と呼ぶ。



『46番目の密室』は、本格推理小説という幻想にまつわる物語である。
舞台となるのは、「密室の巨匠」と称される大物推理作家・真壁聖一の別邸、星火荘。真壁を囲む推理作家と編集者たちの集いにおいて、彼は密室ものからの「転向」を表明して周囲を驚嘆させる。その後、密室の絶筆を宣言した真壁は、完全な密室である地下書庫において殺害されているのが発見される――

本作には、設定にも、そして本文にも、推理小説に関連するワードが頻見される。語り手である有栖川有栖(作者と同名の登場人物、というのは、もちろんエラリー・クイーンの影響下にある設定だ)が推理作家である、という設定上の問題を差し引いても、実に自己言及的な造りの小説だ。
冒頭、真壁が密室ものを書かないと宣言する場面において、彼は自らの限界――密室に、そして本格推理小説に対する――に行き着いたことを打ち明け、そして今後の展望を語る。純文学やSFへのジャンル転向でもなく、文学性の追求でもなく、アンチ・ミステリのようなジャンルに対する批評でもない。彼の行き着くべき場所は、『天上の推理小説』と称される。


「(略)何であれ物事をむやみにカテゴライズすることは感心しないが、推理小説はそれ以外の小説と区別するしかないという性質を内包していると思う。推理小説はポオの『モルグ街の殺人』をもって嚆矢とするということが定説になっているが、考えてみるとこれはとても奇妙なことだ。何故原初の一作を特定する定説などがあるのか? それは推理小説が文学の世界の特異点である証拠ではないのか? 光さえもが直進を拒まれる『空間の歪み』を科学者が宇宙に発見したように、おそらくは『推理小説』も発見された特異点なのだ」
「その特異点では何が起きるんでしょうか?」
不意の質問者は火村だった。そのことが意外だったのか、真壁は斜め前の彼の顔を見た。そして言葉を幾分丁寧にして、こう回答をした。
「謎と分析、あるいは神秘と現実、つまり感性と悟性が永久運動を行なう。互いに相手に圧力を加え合いながら、苦しげに、しかし美しい運動を続けるんです。幾何学のファンタジー、昏い夢がこの世の外へ向けて輻のような光を放つんです」

「おそらく私は、推理小説とはかつて書かれたことのない物語である、と極論したいのでしょう。古今東西の名作と呼ばれる作品名のリストを見る時、私はいつしかかぶりを振っています。そこに並んでいるのは、私を含めた数知れない人間を夢中にさせてきたきら星のような作品群には違いないのですが、私は安らかな満面の笑みを浮かべようとして、それを止めてしまうのです、――推理小説はどこか他所、彼方にあるのではないか、と考えて」
「ではそのリストに並んでいるのは何なんです? 推理小説以前のものなんですか?」
火村が追及した。唐突に始まった推理小説の異端審問に彼がこうまで興味深そうに参入していくとは、私も意外な気がした。
「不遜な言い方かもしれませんが、それらは『地上の推理小説』とでも言うべきものではないかと思います。それはそれで愉悦に満ちた楽園です。しかし……」
巨匠は言い淀んだ。火村は口元のメロンの汁をジャケットの袖で拭いながら、それに代わって言った。
「まだ見ぬ『天上の推理小説』があるはずだ、とお考えなわけだ」


この作品の基盤となるのは、『天上の推理小説』なる美しい幻想だ。推理作家の渇望する、未だ見ぬ境地。密室殺人の終着地。本格推理小説のハイエンド・モデル。
しかし、その内容はついぞ語られない。『天上』を垣間見た真壁聖一が発するはずだった作品は――46番目の密室は、焼かれて灰になり、もはや現存しない(これに纏わるクライマックスの場面のやり取りが非常に素晴らしいのだが、ネタバレになってしまうので、未読の方には実際に目を通してほしい。本当に)。しかし、それも道理のことだ。『天上の推理小説』は、あくまで推理作家たちの夢見る幻想に過ぎず、具体的に形を持って生まれくるものではないのだから。
<本格推理小説>とは何か。その定義には諸説あり、しばしばどこに境界線を引くかの議論も発生する。そもそもが「本格」と「変格」を選り分けるための言葉であり、「それ以外」があるからこそ意味が形成される概念といっていいだろう。だからこそ、ボーダーラインは非常に曖昧であり、たびたび個々の価値観の競い合いに陥ってしまうのかもしれない。しかしこの小説を読むと、それ以前の問題として、根本的に<本格推理小説>とはそれを好む人々の抱く様々な夢を仮託された幻想なんじゃないか、とすら思う。価値観がある程度集合して共同幻想化したとしても、本質的には実体のない幻想。一人一人の心のうちに宿る、言語化しがたい淡い光。それらをなんとか共通項で括り、共同幻想として提示したものが、「本格推理小説」というタームに過ぎないのではないだろうか。

「幻想」は、有栖川作品を読み解く上では重要な概念であると思う。そもそも、論理で全てが解明される本格推理小説の世界は、本質的に幻想である。現実には論理的整合性の欠片もない不条理があり、確定できない人間の心がある。それらに無理やり物語を見出そうとするなら、それはもはや宗教だ。
有栖川作品は、本格推理小説の幻想性を理解している。理解したうえで、それを揶揄したり、徒に否定したりはしない。幻想は幻想であるからこそ美しい。決して手の届かない星の光を、届かずとも追いかける。それが、この作家のスタンスだと思う。

『46番目の密室』は、『天上の推理小説』という決して手の届かない星を追いかける推理作家たちの物語だ。真壁だけではなく、おそらく推理作家という人間なら、その美しき幻想を追わずにはいられないだろう。かつて自分が推理小説に触れて覚えた感動を、どうかもう一度この手の中に再現したいと、創作者ならそう願わずにはいられまい。けれど、理想というものはいつも届かない場所にいる。
「謎と分析、あるいは神秘と現実、つまり感性と悟性が永久運動を行なう」。つまりは幻想=不条理と現実=論理の相互性こそが、本格推理小説を取り巻く環境である。時に板挟みになりながらも、それらを両輪として走っていくことでしか『天上の推理小説』は目指せない、と作者は理解している。
先に引用したシーンを見返せば、『天上の推理小説』という幻想を目指し飛ぼうとしている真壁の言葉に、どの推理作家や編集者よりも、探偵役の火村が的確な質問を返している。これもまた興味深い状況ではないか。そもそも、推理作家や編集者=「幻想を扱う側の人間」たちの集まりに、友人である有栖川の同行者として、「色物」でありイレギュラーである犯罪学者の火村=「探偵役という幻想の内部の人間」が参入していることも象徴的だ。探偵役としての火村のキャラクター造形自体に、「幻想」という概念が非常に深くかかわってきていることも着目しておきたい(これはいつか纏めて論じたい部分だ)。

有栖川有栖という作家は、本格推理小説に対し真っ向から向き合い、目をそらすことなくカチ合っている稀有な作家であると思う。ロジックに重きを置く作風自体もさることながら、物語部分にも「推理小説」である必然性が十分に含まれている作家である、といえるのではないだろうか。それは『天上の推理小説』ではないのかもしれない。しかし、だからこそ、真摯に幻想を追い続ける数多の作品たちは、これほどまでに人を惹きつけてやまないのではないか。『46番目の密室』というある種自己言及的なこの小説は、その端的な表明であるように思う。

それでもやはり、いつか幻想を俯瞰しながら飛べるようになったとき、『天上の推理小説』を執筆してくれることを祈りたくなるのは、読者の性というものだろうか。



個人的に、本作『46番目の密室』を皮切りとする火村英生シリーズ(作家アリスシリーズ)の初期作品の隠れたテーマは「理解という幻想」ではないか、と思っている。読書メーターでも少し書いたのだけれど、今作に関しては、共通認識=相互理解の不可能性、ということになるのだろうか。そういえば、最後に火村が犯人に対して「○○を信じてすべてを打ち明けていればよかった」といった趣旨の言及をしていたが、やっぱりそういうことなんだろうか、と思ったりした。相手を信じるということは、自分を理解してもらえると確信することだ。もちろん、言語という媒介を用いてしかコミュニケーションが出来ない時点で、100%の理解というものは実質不可能である。それでも――というのが、最後のくだりの意味なのかもしれない。