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幻想俯瞰飛行

生存記録を兼ねて長文を書くためのブログ。文章読んだり書いたりします。 

正義の射程――『劇場版PSYCHO-PASS』を観ました

☆はじめに

長々と放置していましたが、あけましておめでとうございます。
本当は昨年12月の文学フリマの感想とかちゃんと書きたかったんですが、いつのまにか時間が過ぎていました。怖い! 文フリで手に入れた同人誌も読んでるので後々ちゃんと文章にしたいですね……。

で、ここ数か月何をやっていたかというと、わりと映像に対する熱が上がってたので、huluに加入したこともありドラマなりアニメなり映画なりをぼちぼち観てました。個人的に数年に一回刑事モノブームがくるんですが、今回もそんな感じで(堤幸彦作品を観たりしてます)。
その流れで今一番楽しんでる作品がPSYCHO-PASSなのですが、今月封切られた劇場版を観に行ったので、雑感を書き留めておきたいと思います。

いやほんと、純粋にすごく面白い映画でした。最初は事前情報何もナシで、すわ「虚淵さんだし叛逆の物語みたいなどんでん返しがあったらどうしよう……」と怯えながらの鑑賞だったんですが、シリーズもの劇場版としてスタンダードな作りではあるものの、アクションあり、メカ・ミリタリー要素あり、メッセージ性あり、ロマンスとまではいかなくとも人間ドラマありで、あとは音響がすごいとか劇判もヤバイとかシラット超カッコイイとか色々あるのですが、とても濃密な作品になっていたと思います。
スタンダード、とは言いましたが、もちろん舞台設定が舞台設定なので一筋縄ではいかず、エンドロール後のラストシーンなんかは非常にアイロニカルでいろいろ考えてしまうものです。これは多分細かい伏線とか要素を追うために複数回鑑賞したほうが面白くなるんじゃないかなー。

☆思想なきヒーローの顛末

サイコパスというシリーズは「近未来のディストピアSF的舞台における刑事モノ」というジャンル上、群像劇的にどの登場人物の視点から物語を概観しても面白い作りにはなっていると思うんですが、中でもこの作品の軸となるのは常守朱狡噛慎也という二人の主人公になると思います。
「シビュラシステム」という人間の意思決定を代行しうるシステムが社会の根幹にある国で、「自分にしかできないこと」を求めて公安局刑事課監視官という職を選び、壮絶な事件と相対する中で「システムに頼らず、自分の意志で未来を選択する」ことを見出す常守と、かつて監視官でありながら部下を殺害した凶悪犯を追ううちに執行官に堕ち自らも復讐者として殺人という境界を踏み越えることになった狡噛。
「犯罪係数」という、人間が潜在的に犯罪を起こしうる可能性を数値化したものが明示される技術を背景に、この二人のそれぞれの「正義」が問われたのがテレビアニメ版だと思います。

今回、劇場版において、更にこの二人のスタンスの違いがくっきりと浮かび上がり、その対比が非常に面白かったです。
パンフレットの虚淵玄深見真の対談において、狡噛は

「そんなに広い視野を持っている人ではなくて、流れ着いたあの場所で、行きずりの悪を見逃せないので戦っているだけという。生まれついての猟犬なんでしょう」「悪人が出てきたらむしろ喜ぶ、正義と暴力のワーカホリックですね」

と説明されています。自分はアニメ一期を観て、狡噛のキャラクターを捉えかねていた部分があったのですが、この説明や劇場版本編を観てすごく腑に落ちました。
常守の視点は社会の全体を、そこに属する人々の一人一人を捉えているのに対し、狡噛の視点は自分のまわりの物事しか捉えられていない。一期の狡噛には槙島聖護という目標があったからこそ芯の通った人間に見えたものの、彼は本質的には根幹となる思想や信念を持たず、ただ目の前の物事に反応して動いているだけだったんだなあ、と判って、ようやく合点が行きました。

劇場版においても、狡噛の「正義と暴力のワーカホリック」さは如何なく発揮されています。
日本から逃亡後、一度は安息の地を探していたものの、シビュラの恩恵によって鎖国体制を敷き国外の世界的な紛争状態から逃れることが出来た日本の外に平和な地はなく、結局は舞台となるシーアンに辿り着いて日本製ドローンへの対策を教え込むため反政府ゲリラの軍事顧問を務めることになった狡噛ですが、彼は無自覚に周りの人間を惹きつけ、半ば崇拝されるようなかたちでゲリラ間の精神的支柱となっています(狡噛と常守がゲリラのベースキャンプに戻ってくる場面、まるで宗教の指導者のように崇められる狡噛の姿が見られ不気味でよかった)。狡噛自身には人を動かす意志はなくとも、周りに集まってくる人間に答えて行動しているうちに、彼は指導者のようなポジションについてしまうことになりました。
最初に劇場版についての情報を見たとき、「槙島を殺害したとはいえ自身の正義に忠実に行動していた狡噛が、どれだけ体制側に理がなくとも安易にテロリストに加担して血を流させるような真似をするだろうか?」という疑問を抱いたことをよく覚えています(最悪これ別人やクローンネタなのでは?とかも考えてました)。
実際に劇中でもそのあたりを常守にツッコまれており、それから意図せず人を惹きつける狡噛のカリスマ性の話になり、槙島と同等の素質を兼ね備えてはいるが狡噛は槙島と違って意図して人を思い通りに動かそうとはしていない、という常守の持論に、狡噛は「ヤツをそんな風に認識していたなら、手こずるわけだ」という意味の返答をします。
狡噛としては槙島も意図して人を扇動するようなやり口ではない、という認識であり(槙島は人を炊きつけて犯罪をさせていましたが、自分の手足として動かしていたわけではなく、あくまで他人の行動を見て楽しむ傍観者だったからでしょうか)、計らずとも自分と仇敵の類似性を認める結果になっています。思想なき狡噛という男の空虚が、犯罪者の思考を追ううちにそれによって埋められていくという皮肉……。
そもそも、狡噛の思想のなさ・視野の狭さも、天性のものともとれますが、もしかしたらシステムによって選択を代行された社会の歪みそのものなのかもしれません。だとしたら、そんな狡噛がシステムの支配下から疎外されたのは本当に救われない話です。

☆ミクロの正義とマクロの正義

狡噛の視点はミクロの視点です。身の回りのことしか見えず、目前の善悪に反応して行動するしかできない。だからこそ、マクロの視点で社会の最善を計算し一定の「犠牲」を生むようなシビュラシステム下の社会では生きることができない。
また、そうした画一的な思考に囚われることなく、自分のしたいように行動するその姿は、抑圧された人々には非常に魅力的に見えることでしょう。彼はマクロの視座から残酷な天秤の測り手となることもなく、目の前の人々を助けるために無償で動くことでしょうから、そりゃ内戦に苦しむ民の精神的な支えにもなるってもんです。厄介なのは本人に自覚のないことですけど……

そして、そんな狡噛を刑事の先輩として尊敬しつつも道を違えることになった常守。彼女は狡噛のようなミクロの視点を失うことなく、マクロの視点をも獲得しています。
シーアンの現状に憤りつつも、シビュラ相手に対等に立ち回ることができるのは、きっと彼女だけでしょう。終盤、狡噛の許に宜野座を向かわせて自らはハン議長の許へと向かう旨を告げる常守のシーンは象徴的です。
もちろん宜野座と狡噛の友情を図っての意図もありますし、宜野座なら狡噛を無碍に扱うことはないだろうという推測あっての指示でしょうが、彼女が相対するべきは狡噛という個人ではなく、シビュラというシステムそのもの。拘束されていた狡噛と常守を一係が救出に訪れてからの二人が別れるシーンにも共通しますが、異なる視野を持つこの二人が戦うべき戦場は異なるのです。
この「レンジの異なる二つの正義」の交わりと別離を、テレビ版にも増して鮮明に描いた劇場版は、自分にとってなかった思考を齎してくれたように思います。異なる正義がぶつかり合う、という物語は沢山ありますが、こういうカラーの描き分け方はなるほどと思わされました。自分はどちらかというと視野が狭くて目の前の物事に飛びつく狡噛タイプなので、常守みたいな生き方がすごく羨ましく見えますね。

☆「怖い」主人公

そういった狡噛の立場を踏まえても、今作の狡噛は「怖い」人物だったような気がします。
テレビ版からして、彼は犯罪者を追ううちにそれに同化していく、「怪物と戦う者は、自分も怪物にならないよう注意せよ。深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込む」を地で行く人物だったのですが、劇場版ではより大きなうねりの中にいるせいでしょうか。
今作は『地獄の黙示録』モチーフだそうで(そういえばデズモンドの台詞のワーグナー云々ってワルキューレの騎行か!)、言われてみれば体制側から切り離された人間がカンボジアぽい場所で人間を率いてドンパチやってるぞ! という感じなのですが、カーツ大佐ほどの狂気やラスボス感はなくとも、狡噛の「無自覚に人間を牽引してしまう能力・生き方」っていうのは、一歩間違えれば槙島になりかねないという意味でも恐ろしいものだと思います。そういえばこの人、一期で『闇の奥』読んでたな……。
憲兵隊の現地民への不正を赦せず行動を起こしたり、常守や宜野座などかつての仲間を案じたりと、人間らしい感情の動きは見せていたはずなのですが、やっぱりミクロの視点しか持ち合わせない人間がゆえの危うさが前面に出されていたように感じました。
だってこの人崇められてるんですよ!(笑)あれ以上放っておくと余計死人が出る、という使命感もあったけど、大体の部分は私怨で占められた理由で法を破り人を殺して逃亡した男ですよ! そんな人間が……。
そういう人間だから、なのかもしれませんけど、本人も自分のスキルに怯えているわけで、ちょっとこの辺の後味の悪さは一期から観てきた人間にはつらかったです。今後、周りに集まってくる人間を救おうとした結果、多くの人々を率いて社会の敵となって常守たちの前に帰ってくる、とかそういう展開がありそうで怖いなぁ。メタルギアにおけるビッグボスみたいな。
半ば臨死状態で槙島の幻影を視るシーンには本当にゾッとしました。思想なき男が仇敵の姿を借りた己の無意識下の疑問に問い殺される場面ですね、アレは……。でも槙島が登場してパイプオルガンのBGMが流れるとなんとなく笑っちゃうんですけど……。

常守朱の選択

で、狡噛の話ばっかりしてしまったわけですけれども、自分が心惹かれるのはむしろ彼と対比されている「レンジの広い正義」の持ち主である常守のほうです。
一期からして友人を手にかけた槙島を殺しそびれてからの彼女の株が上がりっぱなしだったんですけど、やっぱりこういう「不完全な法と眼前の悪を秤にかけた結果として、法を逸脱せず己の殺意を収めて終わる」タイプのキャラクターがものすごく魅力的に見えるんですよね。有栖川有栖の火村シリーズとかもそういう要素ありますね。
こういう類型の登場人物が殺意を収めて終わる理由っていうのは色々あるとは思いますが、彼女の場合は法秩序が社会を、そこに属する人間を守っていることを知っているから、完全でないことを知りながらも法に従ってしか槙島は裁けないと理解していた、ということでしょう。
しかもそこで留まることなく、「法が人を守るんじゃない。人が法を守るんです」「社会が必ず正しいわけじゃない、だからこそ私たちは正しく生きなければならない」と、民主主義における社会の構成員の意思表示の重要性の話になってくるんですよね。実際、彼女はシビュラにかけあって取引のできる立場にまで上りつめたわけで、二期では間接的ながらその制度を改編するまでの仕事をやっているわけです。
こういう「現状を肯定せず、かといって壊すわけでもなく、よりよい未来を模索し行動していく」キャラクターは珍しくていいな、と思います。自分が知っている虚淵作品(『沙耶の唄』『Fate/Zero』『まどか☆マギカ』辺り)を考えると、こういうミクロとマクロを折衷しつつ生きていくキャラクターってあんまりいなかったと思うので、稀有な存在なのかな、と。

この作品の憎いところは、一応理想的なポジションとして描かれる常守にもバンバン反証をぶつけていくところだと思います。
まず一期の狡噛という理屈の外側の復讐者を止めることはできませんでしたし、二期も彼女にとって試練の連続でした。特に霜月の存在は意図的に常守と対比させるためにぶつけられてきたもので、同じく友人を殺された過去を持ちながらも常守とは正反対に臆病なシビュラの賛同者として育っていく様が見事に視聴者の期待を裏切り、ある種痛快ですらありました。でも当たり前なんですよねぇ。みんながみんな常守になれると信じていた我々のほうが固定観念で人を判断していたわけですから。
常守の信念はある種マッチョイズム的な側面があるもので、彼女のような考えを持てる強さや社会的地位がない人間にとっては刃にもなるものでしょう。そこのところの「一筋縄ではいきませんよ」という意味としての霜月の配置は本当に巧かった。あの子、劇場版では有能で容赦ない奴隷になっていて感動しました(笑)。「空気読めってことですよ」って言葉は本当にシビュラ下の社会を端的に表してますし、現実にもリンクしますよね。
そしてこの劇場版では、シビュラの神託によって幸せな道を歩む友人からはじまり、伊藤計劃作品もかくやという紛争にまみれ荒廃した世界で、日本だけが鎖国しシビュラに頼り治安維持を行うことで一応の平穏を得ているという、よりシビアな現実が突きつけられました。ゲリラ掃討戦の描写とか本当にきっつい(描写がグロいとかではなく、常守の立場に立ったとき日本の現状を肯定しなきゃいけなくなる作りが)(でもメカはかっこよかった)。
暫定のシステムでもないよりはまし、というのはシンプルな理屈ですが、技術には恩恵と欠点の両者が存在し、全ての人間を救う最適解なんてものは存在しないのだ、とはっきりわからされた感じが、もう……。
シーアンに民意による選挙を導入した、という点で、たとえ人民がシビュラを選んだとしても常守のしたことは無駄ではなかったように思いますが(そして彼女本人もある程度想定はしていたのではないでしょうか)、それでも最前線に飛び込んで生活している狡噛にとっては何も変わらない、というのがラストシーンのアレですかね。銃を構える少年を見て驚いた表情で煙草を取り落とし、苦笑を漏らして終わる。
エンドロールの後の短いシーンですが、これがあるのとないのとでは作品ががらりと変わってきますね。

☆その他もろもろ

他にもいろいろ書こうと思えば書けることがいろいろある、様々な方面から切って楽しい作品になっているので、個人的には予想していたような完結編ではなかったものの非常に楽しい作品となりました。
あんまり真面目じゃない方面の話としては、宜野座の成長が嬉しかったです。こういう「主人公になれない」「選ばれない」側の人間がどう足掻いて運命に対処していくかは、それだけで一つの作品に出来るくらいだし、ものすごく好きな題材なのですが、アニメ一期二期を経て一つの決着と解答がもたらされた劇場版の彼は本当に魅力的ですね。激しいアクションや強襲型ドミネーターでのスナイプもクールだったし、なにより狡噛に引け目や劣等感を感じていたであろう彼が対等な立場として並びたてる人間になったのが感無量です。
狡噛・宜野座・常守の三角構造は物語の幅を広げるいい配置だなあと思います。
あとは生々しさでしょうか。システムに支配された仮初の楽園である日本と、終わりなき内紛から脱け出せない諸外国。テレビアニメ版でシビュラシステムに疑問を持った視聴者に現実を突きつけ、「どうにもならない」世界の様相をこれでもかと見せつける中盤のゲリラ掃討戦シーンは非常に力が入っていました。非現実的に見えて現実と地続きの場所にあるように見える世界――よく考えれば、個人の状態を数値化する試みも、犯罪を病理ととらえる考え方も、現実に存在するものなんですよね。伊藤計劃の『ハーモニー』における健康を第一の価値と捉える高度福祉社会の、精神医療バージョンみたいなものかと思います。
まだいろいろと考えたことはあるんですが、観た人の心に波紋を広げる感じがサイコパスという作品のいいところなんでしょうね。エンタメとしても楽しめる小ネタが沢山でしたし、どこを切っても面白い作品でした。ぜひこのプロジェクトが続いて続編が制作されることを祈ります。

三期はミステリ作家呼んで刑事モノ回帰もやってくれないかなー(笑)