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幻想俯瞰飛行

生存記録を兼ねて長文を書くためのブログ。文章読んだり書いたりします。 

僕らは「ゲームでしか味わえない感動」を知っている。――詠坂雄二『インサート・コイン(ズ)』

インサート・コイン(ズ) (光文社文庫)

インサート・コイン(ズ) (光文社文庫)


 大仰なタイトルになってしまった。
 ご存じの方も多いと思うが、「ゲームでしか味わえない感動がある」とは、NINTENDO64版『ゼルダの伝説 時のオカリナ』発売時のキャッチコピーである。テレビゲームの王様たるマリオシリーズもろくにクリアできない、いわゆる「ヌルゲーマー」としてゲーマーの末席を汚してきた自分も、このコピーは大好きだ(でも、『時のオカリナ』は未だクリアできていない。ゼルダシリーズは難しいのだ)。
 でも、果たして「ゲームでしか味わえない感動」ってなんなんだろう。そうやって改めて振り返ったとき、テレビゲームというメディアが映画や小説といった他の媒体と異なる大きな要素として、インタラクティブ性、つまり自分で操作できることが挙がると思う。

 近年、ゲーム批評界隈のバズワードとして「ナラティブ」という概念がクローズアップされている。
[CEDEC 2013]海外で盛り上がる「ナラティブ」とは何だ? 明確に定義されてこなかった“ナラティブなゲーム”の正体を探るセッションをレポート - 4Gamer.net

 物語論に多少の親しみがある自分にとってはすんなり受け入れやすい概念だが、ストーリーとナラティブを混合して語る向きは未だ多い。ゲームというメディアが(例外はあれど)インタラクティブ性によって独自性を確立している以上、用意されたリニアなストーリーより、プレイヤーが独自に獲得するナラティブが重要視されるのもしかるべき結果だろう(個人的に興味のある分野でいえば『ファイアーエムブレム』シリーズに途中からマイユニット要素が搭載されたことなど、このへんの流れで語れることがあると思う)。
 ひとはゲームから、個人に固有の「物語」を受け取る。
 だからこそゲームは思い出と密接に結び付き、プレイヤーの汗と涙、喜びや悲しみと切に関係を深めることができるのであろう。
 

 本作『インサート・コイン(ズ)』を手に取った直接のきっかけは、米澤穂信の寄せた帯文だった。

「世界なら何千回も救ってきたのに、自分一人を救いきれず、もがきながら『たたかう』を選び続ける、これは痣だらけの物語だ」

 これだけでも読みたくなるには十分なキャッチコピーだ。

 『インサート・コイン(ズ)』はゲーム誌ライターの柵馬を語り手に据え、往年の名作ゲーム(ファミコンスーパーファミコン期あたり)を題材にした短編が五作収録された短編集である。『マリオ』や『ぷよぷよ』『ゼビウス』、『ストリートファイター』に『ドラゴンクエスト』といったラインナップを挙げるだけでも十二分に訴求力はあるが、単なる「ゲームあるあるネタミステリ」に留まらない力が本作には存在する。
 その魅力とはなんだろう? 昔遊んだゲームたちを大人になったいま郷愁と共に思い出す、そういったノスタルジーだけでは前述の「あるあるネタ」の域を出ない。この作品はそこに留まらず、過去を懐かしみながらもうだつのあがらない現実と戦っていく力強さを持っているのだ。
 本作はゲームを題材にした小説ではあるが、それ以上に「書くこと」「語ること」「創ること」を描いた、普遍的な側面を持つ小説でもある。

「ほら、シューティングのハイスコアと同じでしょう。ルールを設定した者の想定を超えること。先人たちの誰もが想像していなかった文章を書けば、それは問答無用に読者を圧倒するものになるんですよ」
「でもそれは、簡単じゃありませんよね」
「不可能でもありませんよ。何も物理法則を超えろと言っているんじゃありません。無謬の神ならぬ誤る人が作ったもの、いくらでも超えようはありますよ」
(『インサート・コイン(ズ)』より)


 ミステリとは、「問いかけても答えない死者=謎にそれでも答え=解決を求めようとする人間」の物語である。つまり、本質的にディスコミュニケーションの文学たりえるのだ――というのが自論だ。言葉は言葉として発せられた以上、発信者の意図そのままに在ることは100%不可能であり、ひととひとが受け取り合う上で必ず大なり小なり摩擦を生む。
 それでも、ひとはコミュニケーションを志していくほかない。ひとは独りでは生きられないし、必然的にだれかを求めてしまうからだ。そんな不完全なコミュニケーションの中にそれでもさらなる活路を生もうとする意思、それこそが「シューティングのハイスコア」であり、謎という断裂を復元しようとする推理であるのだろう。伝わらないのなら、伝わらないままに受け取ればいいのだ。
 他者の「物語」を読み解こうとする意思、それが個々の「物語」を生成するためのゲームという媒体と、謎を解こうとするミステリというフォーマットの橋渡しとなっている怪作である、と強く思う。


 個人的なフェイバリットはまず『ぷよぷよ』を題材とした『残響ばよえ~ん』。初恋の人である中学時代のクラスメイトが抱えた秘密を十年越しに解き明かす、過去を懐かしむ日常の謎ミステリの体裁をとっているが、設問と解答の明確さ、また解答に至るまでのヒントの回収の美しさが純粋にミステリとしてポイントの高い作品になっている。有栖川有栖『ハードロック・ラバーズ・オンリー』のゲーム版、といったらわかる人にはわかるだろうか。
 また、ゲームを題材にしたミステリというだけあり、ただゲームの話が出て終わりというわけではなく、テーマとなっている『ぷよぷよ』の持つとある特性が謎解きのヒントになっているところも良い。ゲーム論と併せて「なるほど」と唸らされた箇所である。アーケードゲームの描写もその筋のゲーマーにとっては嬉しい部分だろう(自分はあまりアーケードやらないんですよね)。

 あとは最後に収録されている『そしてまわりこまれなかった』。自殺した友人からの最期の年賀状に込められた『ドラゴンクエストⅢ』の謎を解く、つまりは「ディスコミュニケーションに終わった死者の言葉を復元する」ミステリらしい話である。世代であれば(自分は実は世代より下なのですが、GB版をめちゃくちゃプレイしました)かなりの割合の人間がプレイしたであろう超名作を題材に、ゲーム自体にも新たな解釈を付け加えつつ、それが死者の意志を読み解く最大のヒントになりうるという構成も見事な作品だ。読み終わってタイトルの意図がわかった瞬間、鳥肌が立つこと間違いなし、といえる。
 幼少期にゲームに親しみそのまま成長し、社会人になってプレイのためのまとまった時間もなくなり、それでもゲームを辞められないまま愛し続けている、そんな大人たちに是非読んで欲しい作品。



 というわけで、『ドラクエⅢ』を再プレイしようかと思ったんですが、手許にあるはずのGB版が見つからず、なぜか『ドラクエⅠ』をやっています。竜王強い……強くない?