幻想俯瞰飛行

生存記録を兼ねて長文を書くためのブログ。文章読んだり書いたりします。 

メモ:セカイ系、アジカン、伊藤計劃

今後書きたいと思っている文章について、叩き台が欲しいなと思ったのでメモ。クソ乱雑なので何らかの意味がある記事ではありません。ホワイトボード。
アジカンセカイ系」というテーマ、まぁ昔から雑言及が多いなと思うんだけど、ちょっとここでまとめておきたい気がする。
アンチセカイ系、とまとめてしまうのは簡単なんですけど、私は別にセカイ系が嫌いではないので(もちろんセカイ系に対して批評性のある作品も好きです)、そこで落としたくない、という思いがあります。

1.セカイ系とは

2000年代前半に流行した漫画・アニメ・ライトノベル美少女ゲームといった、いわゆるオタク系文化の諸作品に現れた作品傾向のこと。発端はインターネット上で流布した言説であり、後年になって東浩紀が批評の文脈で取り上げたことにより浸透した。
物語の主人公(「ぼく」)とヒロイン(「きみ」)の二者関係が、一切の具体的(社会的)な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった抽象的な大問題(「セカイ」)に直結する作品の物語構造のことを指す。
代表作としては、秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』(2001)高橋しん最終兵器彼女』(2000)新海誠ほしのこえ』(2002)などが挙げられる。
宇野常寛は、これらの「セカイ系」的作品を90年代後半のポスト・「エヴァンゲリオン」の文脈上にあると述べ、2000年代に追いついていないと批判を加えた。

この文章が何かというと、ただの学生時代の提出物の脚注でミリ触れた部分なので、稚拙でも許して下さい!!!
確か名前出てる東や宇野や笠井とかを参照したようなしてないような。
付け加えるとすれば、たぶんネットで出てきた頃はもっと雑な概念というか、若い男女のイチャコラが雑に世界の命運を揺るがすの自意識過剰よねー、みたいな批判の文脈っぽい。

2.ASIAN KUNG-FU GENERATIONセカイ系

セカイ系ゼロ年代は結びつけて語られがちですが、ゼロ年代といえばいわゆる「ロキノン系」「下北系」国内ロックバンドシーンの盛況な時代でした。この辺はクソ雑理解なのでアレですが、
・~90年代洋楽ロックからの影響が色濃い
・ストレートなギターロックを軸とする
・メンバーが着飾らない、Tシャツにスニーカー等ラフな格好、ちょっとナードな雰囲気
・「君と僕」のクローズドな関係性とか内省的な歌詞
みたいな印象を持ってたんじゃないかな。ケトルのゼロ年代特集の号買ってたはずなんで後で読み返します。
時期とテーマ性から、ゼロ年代邦ロックとセカイ系はしばしば重ねて語られます。多分一番槍玉に挙げられるのがBUMPで、アジカンはその次くらいの感覚。BUMPは
・物語調
・「君と僕」の世界
・内省
・オタク好み
あたりで言われてるんかな。たまに「BUMPの作品には社会が想定されてないやん、アジカンはされてるのに」みたいなツッコミする人いるけど、社会が想定されてないっていうより個を大事にしているという感覚を私は受けるので個人的にはあまり否定的に捉えてません。
アジカンセカイ系扱いされる/されていた所以としては、アニメタイアップ等のオタク層への訴求もあるだろうけど、やっぱり「君と僕」の主題を取り上げられてる面が強そう。

一方でゴッチはその辺の文脈とそこに対する反感をかなり色濃く抱いているっぽいことはファンの定説になりつつある。

君繋ファイブエム』というアルバムをリリースしてから随分たったけれども、このところ、このアルバムで掲げた「半径5メートル」について考えている。まあ、当時考えていたことは、例えばインターネットの登場が代表するような情報化社会の中で、それぞれの「半径5メートル」が無茶苦茶になってしまうんではなかろうか、ということだった。ひとまずはその「半径5メートル」をしっかりと知覚したり把握したり整理しないとどうにかなってしまうんじゃないか、っていう危機感を反映させてのタイトルだった。コンフリクトして固まらずに現実と接続するための「半径5メートル」についてのアルバムだとも言える。で、まあ、そうして「半径5メートル」のことをチクチクと歌てみたらば存外にグズグズとモヤモヤの塊みたいな歌ばかりになってしまって、丸ごと焦燥感の膜で包んだようなアルバムに出来上がった。どこか青くて切ない、デビュー時にしかできないだろうフィーリングのアルバムだと思う。結成から1stアルバムまでの、7年もの不遇時代がそうさせたのかもしれない。

 そして、まあ、この「半径5メートル」というキーワードが誤解されて、同時に「君」とか「僕」とかいう二人称が当時のサブカルチャーのブームにひっくるめられて、「セカイ系」みたいな誤読をされて当時は心底気持ちが悪かった。軽く精神が溶解するくらいに今でも嫌なのだけど、俺の曲には「僕ら」っていう主語も出てくるように、「君と僕」というのが文字通りの特定されたオレとオマエ、そういう閉じた関係性を表しているんではなくて、読み手や聴き手に呼びかけるような広い意味での「君」なのだけれども、そこのところを誤読されて、「半径5メートル」の中にはオレとオマエ的な「君と僕」だけ、醸造エタノールの廉価な焼酎を友人と飲む余裕もないくらいに閉じた、オレとオマエと大五郎よりも狭い「セカイ」であるみたいな解釈をされてしまった。「ループ&ループ」のどこがセカイ系なのよと俺は思うのだけれども、「リライト」だって著作権の歌ではないか、と思うのだけれども...。まあ、随分と俺が分かりづらい書き方をしたのかもしれない。

(引用はweb日記から)

骨芋のときの解説。



後藤正文というクリエイターは、基本的に自意識の閉塞を嫌う人だと思っている。「マジックディスク」では、まさに自意識に過剰に拘泥したゼロ年代というディケイドからの脱却を徹底的に追及しているわけだし。
いわゆる「セカイ系」への反感は、彼の詩人としての根源的なテーマからくるものだと私は認識している。まぁ、自分が頑張って作ったものがあらぬ方向に誤読されてたらムカつく、というのはクリエイターの普遍的な感情かもしれんけど。
セカイ系」が侮蔑としてのタームたる所以は、狭い二人の関係性がそのまま大文字のセカイへと拡張される、身も蓋もない言い方をするなら「オタクの自意識過剰キモ!」みたいなところがあるんだと思ってるんだけど、なんでキモいかというとまぁ他の人がいないからなんだろうな。
これはマジでパブリックイメージからくる誤解の大きなところなんだろうけど、アジカンって肯定的でも否定的でも「オタクの俺らと似てる!」みたいな扱いをされてたところがあったと思う。アニメ主題歌でオタクのファンが一定数ついたこととか、見た目とか(ルッキズムをやめろ~~~!!!)、言葉遣いがオタク受けするとか、まぁその辺なんだろうけど。
未だにアジカン好きな人が思い入れを語る時、8割は「見た目が親近感わく、俺たちのような人間でもロックができるという希望を持たせてくれた」みたいな語り口になりがちだと思う。
でもぶっちゃけて言うと後藤正文にオタク性って殆どない。サブカルとオタクのクッソ安易な二項対立には持ち込みたくないけど、少なくともあの人はアニメ漫画ゲームといったオタクカルチャーに親和性は無い気がする。私はこれを説明するときに「ナードではあるがオタクではない」と言ってます。
他のメンバーもだいたい「ナードだけどオタクといえるかは疑問」みたいな立ち位置の人たちで、90年代に青春を過ごしたボンクラUKロックファン的な色は強い。潔はルーツ別だし陽キャみが強いけど、08年?の個人インタだと割かしナードにも親和性があるような感触を受けた。建さんは絵に描いたようはサブカル自意識閉塞青年だった感じ。ハルキスト……。山ちゃんは最近攻殻とかガンダムとか仮面ライダーが好き的な話がよく出てくるので、実は一番オタクでは……? と疑ってます。
でもなんかオタクに勘違いされ、俺たち! みたいな扱いをされ、オタクが嫌いな政治の話をして叩かれ、みたいな流れはあるよね。オタクが政治ネタ嫌いというのもなんかこう、意味がありそうだよね(右傾化しやすい、逆に一周廻って左傾化しやすい、結論として過激化しやすい、みたいなのはあると思うんですけど、アジカンへの反応を見てると正直かなりオタクの政治アレルギーはあると思う。まぁ個人主義だもんね)。

話が逸れたけど、ゴッチのセカイ系解釈が「君と僕の閉じた関係性」なところからして、そういう言い方をされてきたんだろうな、と推測できる。原義(というほど原義があるか?)のセカイ系から、世界変えちゃう系の大仰さとか、あとは細かいオタクギミックを除いた感じの用法。これはゼロ年代邦ロックがそういう目で見られてたってことに繋げて語れるかもしれない。
アジカンのテーマとしての「君と僕の半径五メートルの関係性を社会に敷衍していく」は、実は「君繋」から「ホームタウン」まで変わってない(と思う)。確かに君繋の時点ではフワフワしていてわかりにくいし、どんどん洗練されてはいるけど。なんなら最新シングルの「解放区」だってそういうことじゃんな。自由というお題目の裏で取りこぼされたものを拾いながら、個から社会へと想像を拡げ(ポエトリーのところがまさにこれ)、音楽によって少しずつ解放区を作って拡散してこうね、という感じの。ここ二年ほどの「音楽と自由」のテーマを模索してきた文脈はあるとはいえ、テーマ自体は分解すると普遍的じゃない? という気がする。
ゴッチの言いたいこととしては、「閉塞した君と僕の関係性をそのまま無根拠に(ファンタジーに)セカイに繋げてるんじゃなくて、個から社会への普遍的な影響力の話をしてんねん」という感じだと把握している。元からそういうテーマでやってる人間なので、そら社会の話にも興味が向く。なので、「なんかいきなり政治の話しだしたな」みたいなのは、正直あまり正確な現実認識とはいえないと思う。私も「ワールド~」あたりでちょっとビビった節はあるんですけどね。
で、それって「アンチセカイ系」なのかなあ? というか、その文脈でだけ語っていいのかな? と考えている。
「君と僕」が拡大されていく、というフォーマット自体は、アジカンセカイ系も同じだし、その手法や結論を違えているがゆえにセカイ系に対して批評性を持っていたとしても、アンチって感じ? なのか? という疑問。だって、ゴッチだって「アジカンセカイ系やん」って言われて「は? マジか?」となったってことは、肯定にせよ否定にせよ既存のセカイ系を意識はしてなかったし(そもそも当時オタクカルチャーと無縁だった人が意識はしなさそうだし)、彼ら独自の結論だったわけだと思う。なんかその辺を、こう、上手く語りたいですね。

3.伊藤計劃セカイ系

で、ここまで考えて思い出したのは伊藤計劃だった。
ゴッチが1976年生まれ、伊藤さんが1974年生まれ。伊藤さんが存命なら二歳上で、ほぼ同年代。
セカイ系への距離感と自意識至上主義からの脱却、というあたりにちょっと共通点を感じたりする。あとはナードなボンクラと社会や時代への視座を行き来できること(これマジで好きだしこういうクリエイターばっか好きになる)。
web.archive.org
ファイト・クラブ』評でエヴァをボロクソ言ってたな~と思って探してきたんだけど、まさしく自意識の閉塞への抵抗感と、「外界と『私』との関係性」というワードが出てくる。実質さよロスじゃん(?)
ゴッチがエヴァに言及してたのはこれ
cookiescene.jp
やっぱり自意識の閉塞もうやめん? みたいなニュアンスな感じ。ここでもインタビュアーの言及があるし、別の方も指摘されてることなんですけど、旧劇エヴァはむしろそれを打ちきっとらんか? セカイに繋がらない、人間と人間の関係性の「気持ち悪さ」(にこそ意味があるよね)で終わってないか? という感じはあるのですが、でも伊藤さんの言を見るとそういうことではないんだろうな……

アジカンは「ゼロ年代邦ロックが背負った自意識の閉塞からの脱却」として社会を希求する、という手法だと解釈してるんですけど、伊藤さんはそれをSF的なモチーフでやっている感じ。科学のわからんオタクなのでうまく説明できないのですが、たとえば『ハーモニー』で語られるのは、人間の本質は全然意識じゃない、たまたまなんか必要になったから進化の過程で獲得した機能のひとつであって今後もそうであるとは限らない、じゃあ意識消し飛ばしたら社会はどうなんの?みたいなディストピアSF世界だと把握してるんですけど、その辺もなんか……自意識の限界とか、社会と個の関係性とかで語れそうな気はする。掘り下げないとなんとも言えんけど。メタルギアソリッド2評の「現実は既に仮想現実である」というのもその辺かな。
伊藤さんが一人称視点に拘ってそこにギミック(信頼できない語り手など)をぶっ込んでいることとか、「物語」とそれを遺すことをテーマにしていることとか、後で考えてなんか文章にしたい。メタルギア的に言うとミーム
伊藤さんのセカイ系言及
www.sf-fantasy.com

そうですね。それと、社会全体が悲惨に対して「無関心」になっている、それを可能にしているライフスタイルも含みます。社会状況が先鋭化した針先に、感情調整などのテクノロジーが表象として現出している、ということです。社会そのものが、テクノロジーを経由して、個に投影される、という。
 だから、「虐殺」をセカイ系だという方もいらっしゃたんですけど、それはちょっと待て、違う、流入経路が逆方向だ、と(笑)
 個がセカイに直結しているんじゃなくて、セカイが個に直結している。逆セカイ系なんです。

社会と個の関係性!! これはSF的手法感がある(てきとう)。そしてやっぱり、アンチセカイ系の文脈で語るのも違和感があるなと。アンチをやろうとしてそうなってるという感じもないかな……でも自意識の閉塞テーマの否定をやるならそれはアンチセカイ系になるのかな……浅学すぎてようわからん。

4.あと気になること

・ミステリとゼロ年代(95年問題→「論理で全てが説明できる世界ではない、世界には不条理が必ず存在する」という本格ミステリの敗北→西尾維新とか佐藤友哉とか舞城王太郎とかのゼロ年代メフィスト系というかファウスト系? の流れ→絶対的真実は存在しない的なテーマの本格がいろいろでてくる→今ってどうなんだ)
RADWIMPSって新海作品の主題歌のイメージも強いし君と僕のパワーでなんでもできるぜ! できなきゃ死ぬぜ! みたいな印象強いからセカイ系かなと思うんだけど(HINOMARU問題でも指摘されてた気がする)、なんかそれも雑かな……というところがあり、なんらかの評を読みたい。ゼロ年代邦ロックの流れで出てきた意味がありそうな気がする。でも政治風刺とかもやってたよな……うーん……
・ミステリとRADといえば有栖川有栖『インド倶楽部の謎』なのですが、前世なんて必要ねぇんだよ! テーマの作品で井上陽水『人生が二度あれば』とRADWIMPS前前前世』が対比的に取り上げられるの、なんか書きたいとずっと思ってます。これゼロ年代邦ロックの自意識の閉塞と繋がるのかな~~~でもRADとセカイ系を否定的な文脈で書きたくないな~~~でも有栖川もわりとアンチ自意識の閉塞なとこあるからな~~~~アジカン要素ある? これ……
・別に伊藤計劃の話しなくても語れないかという気持ちになってきたけどアジカン伊藤計劃の話がしたかったところはあるな ゴッチよ……ハヤカワの仕事とかやってたはずだけど虐殺器官とハーモニーは読みましたか……?

自分用まとめ
ゼロ年代における自意識の閉塞(ニアリーイコールセカイ系)もうやめようテーマとしてアジカン伊藤計劃は共通項があるなーと思うし、両者の手法はセカイ系に対する批評性を持ち合わせてはいるけど、アンチセカイ系という言葉では表現できない気がするので掘り下げて考えたい。
過剰にボンクラ面をフィーチャーされてしまったアジカンと、過剰にボンクラ面を軽視されてしまった伊藤さんという対比はなんかおもろい。