幻想俯瞰飛行

生存記録を兼ねて長文を書くためのブログ。文章読んだり書いたりします。 

「音楽について書く」こと、音楽ライターとファンダムのことばの違い

 寒いですね。室内は暖房で暑かったりするので着るものに困ります。コートの下一枚だと外出たとき寒いけど、カーディガンとかちょっと厚手の羽織っちゃうと室内で暑いんですよね。

 ここ最近、それぞれは全く相関のない場所で同時多発的に「職業(音楽)ライターはどうあるべきか?」みたいな話題が出たので、それについての自分の考えをなんとなくまとめておきたいと思います。

ライターの文章とファンの文章

 とても雑な言い方ですが、SNSによってあらゆる人が容易に文章を世界中に向けて発表できる時代になりました。いまこうして書いているブログの流行もかなり壁を崩したものだと思いますが、ツイッターやインスタグラム(は画像が主だけど)はより多くの人に「書いて、発信すること」を普及したな、と思います。
 それに付随して、「職業で書く人」はより目的意識を明確化しなくてはならない時代になったな、とも思います。めっちゃ巧い素人がゴロゴロ無料で文章を公開しているわけで、パイの奪い合いになりかねない状況ではあるんじゃないでしょうか。

 私は元々ツイッター自体は9年(9年…)続けているのですが、その中でもここ三年、音楽関連のアカウントを開設してからは、意識的に「好きなものについて」の文章を書くようにしています。コンスタントに更新されている方々に比べたらペースは全然遅いのですが、音楽文で賞を頂いたり、他の方のブログに書かせて頂いたりなど、お蔭さまで刺激的な体験をさせて頂いております。
 そうして書いていると、「プロの文章とアマの文章って、何が違うんだろうな」ということはよく考えます。

 自虐風自慢っぽいなと思ってあまり表立っては口にしなかったのですが、そろそろ時効だから言っちゃうと、ここ何年かで「お金出すんで文章書きませんか」「ライター興味ない?」みたいなことを何度か言われました。それぞれ相手方がどこまで本気だったのかはわかりませんが、一応全部お断りしています。分野はいろいろですが、そのどれに対しても、私はお金になる文章を書ける自信がありませんでした。自分で思う本業は小説だし
 例えば音楽について。私はSNSやブログでASIAN KUNG-FU GENERATIONについて書いていますが、アジカン以外のバンドについてクリティカルな記事を書ける自信がありません。単純に知識と聴き込みが足りないからです。アジカンについてはオタク的な執着を発揮しているので、ある程度のバンド史やインタビューでの言及等について追ってはいますが、それだけです。音楽史の知識がないと、アジカンがどの位置にいて、その作品と活動には文化的にどういう意義があるかについて完璧には語れないでしょう。また、楽器についての知識が薄いので、ライブでの演奏についても語りにくいです。「このイントロの静謐なアルペジオから優しく語りかけるようなヴォーカルが入り…」とか精一杯書いてます。ちなみにこれは「クロックワーク」の話です(この補足いる?)。

 そう考えると、私が職業音楽ライターについて求めるものは、
・自分にない音楽知識
・上記に裏打ちされた、自分にはできない洞察
・楽曲、アーティスト、シーンへの深い観察力

 の三つなのかな、と思います。
 逆に言えば、この三つがない文章なら、アマチュアのファンにも書けるのでは、とも。

 自分が今まで感銘を受けた音楽ライターの文章を思うと、やっぱり自分には思い至らなかった考察とか、現語化できない感慨を言語化してもらったりその理屈をしっかり論理的に説明してもらったりとか、そういうものになるんですよね。そして、それをやるにはやっぱり勉強が必要なので、そこは専門技能になると思います。アマチュアでもめっちゃ知識エグい人ももちろんいますが(音楽文とかでも、そういう人をどんどん青田買いしてほしいよね)。

 で、逆にファンダムの人間にしか書けない文章もあります。これは2パターン存在すると思っていて、
・一つの対象への熱意が深い文章
・一つの対象への深い知識

 で分類できるかなと。
 前者はもちろん、オタクの熱いキモ・語りは最高!!! という思いです。プロの文章を楽しく読んでいる人にとっては、別にその辺のオタクの語りとか読まんでよくない? と思うこともあると思うんですが、これには最大の武器があって、共感です。共感は、客観的なプロの批評が取り落とす部分だと思います。
 世にある文章の源泉が共感だけだったら確かにクソですけど、批評だけでもクソだと私は思います。世の中には和食ばっか食べる人も洋食ばっか食べる人もいるんでしょうが、私は美味しいものなら関係なく食べたいです。共感は正しく用いるなら悪いものではないと個人的には思います(俺は共感なんていらねえ! はひとつの嗜好の在り方ですが、完全に共感なしで生きていくことも不可能なんじゃないの? と思ってます)。
 あのライブのこの曲の間奏のアレンジが超絶カッコよかった! MCに感動した! コーラスみんなで歌ってテンション上がった! そういう素朴な感慨、スノッブぶって敵視するのもなんか違和感あるし、それはそれで尊いものだと思いますよ私は。
 後者に関しては、ある程度ひとつのアーティストを追ってるライターさんとかだとそれなりに掘って書いてくれることも多いですが、なんか数はすごい聴いてるけどこのアーティストについてはさほど詳しくねえせいでなんか違うこと言ってんな、みたいな人もちょくちょくいるので……。アジカンセカイ系って言っちゃう人とか……。
 そうなってくると、ファンダムの膨大な知識を蓄えた人の発言とか文章はめっちゃ有難いです。資料的価値も大きい。一つのツアー何度も行ってる人にしか書けない文章ありますもんね。過去の超細かい雑誌のインタビューでの発言を引っ張ってきて楽曲やライブの話をするオタク、好きなんだよな……。
 建さん禁酒してからすげえギター良くなった! とかそういう話もしたいよね。

 また、ライブレポの早さに関しては、現在圧倒的にSNS集合知が上回っている状況だと思います。ライブ後即セットリストやMCレポがガンガン上がる状況、時代の経過を感じて割と好きなんですよ。もちろん、こういったデータの流通速度が上がり、多くの人から情報があがってくる今、音楽メディアはどうすべきか? みたいな問題は立ち上がってくると思います。
 ロッキングオン関連のフェスのクイックレポートがセットリストだけになった時、結構「それはどうなの?」みたいなことが騒がれていたのも、その辺に繋がりますね。ま~~~最速感想なんてその辺の観客がすげえ早さでアップしますもんね。どっちがいいか悪いかはわからないけど、少なくとも音楽メディアが岐路に立たされているなあというのは感じます。

 そして、音楽メディア側の人間が、知識と洞察に欠けた文章を出していくことに対しても、疑問があります。
 ロッキンオンの文章、なんやねんこのポエムみたいなスノッブな批判をされることもありますし、自分も疑問を持つこともあります。でも「アーティストの文脈わかってるだけマシだな」と思うこともあります。好きなバンドのメディア露出追ってると、マジでこの取材いる??? バンド名の由来から訊く??? ググれば出るぞ??? みたいなことあるし……。
 それとは逆に、それなりに熱心にアーティストを追っているであろう音楽雑誌での記事が、ファンの感想じゃんみたいなこともあります。すごい意地の悪い言い方をすると「オタクが推しを有難がって尊いごっこしてるだけ」みたいなやつ。私はファンダムに寄って書くことに意義を見出しているので、そういう言及もするんですが(楽しいので)、プロのやることじゃなくないか? と思ってしまうときがあります。それこそポエムじゃん、別に音楽知識なくても書けるじゃん、みたいなのは、少なくとも私は求めてないなぁ…と。
 たとえ好きなアーティストへの批判だったとしても、知識と洞察に優れた人の文章を読みたい。

 あと、プロにせよアマにせよ、バズと大衆に迎合した何の独創性もない言及は読みたくないです。音楽じゃねえけど、「実写化=クソ」ネタとかあまりに芸がなくて本当にウンザリしている……悪質バイラルメディアとやってること変わらんやん。という私怨が非常にたくさんあります。音楽で言うとなんだろ……政治発言するアーティスト批判とかかな……政治発言を浅いって糾弾する割にお前も理解が浅いよね悪質なネットメディアと同類やんかみたいなやつ……もっとさあ……そこじゃなくて別にやり玉挙げるべきところあるだろあっすみませんアジカンファンの愚痴が漏れましたね
 「雑」な語り、是非プロの側のほうから正していってほしいです。

 その辺のつながりで、プロとアマが良い感じに距離感を保ちつつ交流してお互いにしか書けない文章を発表し、相互作用で研鑽していくような界隈は理想かもしれません。プロからしたらアマの文章なんて玉石混交だとは思うけど(逆も言えます)。

好きなライター

 そういう私が好きなライターさんって誰だろう? と考えると、好きな記事よかった記事はいろいろ浮かびますが、この人の書くものに全幅の信頼を置いている! となると、やっぱり本間夕子さんだなぁ、と。
 アジカンファンには「夏、無限。」他アドキュメンタリーブックのシリーズでお馴染み。元々はラルク西川貴教あたりを書かれてたのかな? 邦ロックでも色々担当されているお方です。
 私が本間さんの文章好きや! となったのは、例に漏れず「夏、無限。」なのですが、それこそ知識・洞察・観察力・アーティスト愛のすべてを満たしている上に文章も巧いという、およそ無敵なお方です。「夏、無限。」を読んでいらっしゃるアジカンファンはわかると思うんですが、私がこれまで読んだことのあるアジカンについての文章で、ここまで的確に彼らの本質を抉り出しているものはないと思います。音楽史的立ち位置からライブレポートのみずみずしく鮮やかな描写まで、アジカンというバンドの魅力がこのシリーズの四冊には詰まっていると思います。読んでな!!!
 また、メンバーへのインタビューに際しても、とにかく質問が的確。ドキュメンタリー本四冊目「未来、繋ぐ。」での建さんのインタビューは、彼の返答も含めて本当に白眉。別冊カドカワのGotch特集号に載っている他メンバー三人へのインタビューも、掘り下げが巧くて好きです。バンドへのインタビューってフロントマンに偏りがちだし、フロントマンの思想性や目的性が核としてフィーチャーされがちだけれど、本間さんのゴッチ以外のメンバーへの的確な把握は、アジカンというバンドの構造を誰よりも鮮明に浮き彫りにしているのだと思います。当たり前だけど、メンバー全員に必要性があってこそのバンドなので(そうじゃないバンドもあるかもしれないけど、少なくともアジカンに関しては完全にそれです)。

 あと、これは文章に関わる人間すべてに必要なものだと思うんですけど、「書くことの暴力性を知る」「書くことに責任と誠意を持つ」ことは、とりわけプロには絶対に必要なものだと思っていまして、その点でも本間さんを尊敬しているところがあります。
 ドキュメンタリー本第二弾の「春か、遥か。」、2006年の「count 4 my 8 beat」ツアーの密着レポート。この頃既にファンだった方はご存じだと思いますが、岐阜公演がゴッチの急性咽頭炎により延期になった因縁のツアーでもあります。因縁の岐阜。本間さんのレポートでももちろん岐阜公演の日付でこのことについて記されているのですが、実直に事実を記した短い文章で、ツアーのまとめ的な文章でもゴッチ本人の言葉を引用しつつ補足する形にとどめていて、それがすごく心に残っています。
 結成以来一回も公演を飛ばしたことのなかったバンドの、初めての体調不良による公演延期。web日記ではゴッチの困惑と苦悩が生々しく見られたし、いくらでもドラマチックに、悲劇的に書けたところだと思います。本間さんの文章はエモーショナルかつカッコいい言い回しがバンバン出てくるので、ここだっていくらでも飾り立てられたと思う。事実、私たちファンはそういう目線を向け、そういう消費をしてしまいがちな箇所です。
 それでも、事実と本人たちの言及を軸に据え、さらに公演延期の悲劇ではなくそこから前を見据えた彼らの視線にフォーカスを当てた描写、本当に恐れ入りました。文章に対して、誠実であるからこそ書けた/書かなかったことなんだと思います(何を書くかと同じくらい、何を書かないかは重要なことです)。あとここの建さんのコメントがかっこいいです。
 何かについて書くとき、私はいつも本間さんの文章を思い浮かべます。正確に、愛を持って、誠実に、を心かけたい人生だった……。

そもそも、何故音楽について書くのか?


 自分はそれこそ小学生の頃から文章を書いてネットに発表していたので、なんで書くんだろうな、という問いに明確な答えは出ません。なんかずっとやってるから今もやってる、という感はかなり強いです。笑。
 それでも、何故ネットに書くのか、という問いに、最近ようやく明確な答えが出てきました。

 私は、好きなものを好きと胸を張って言える社会を作りたいです。

 大きく出たな。
 好きなものを好きと言うことは、社会的な行為です。政治的とも言い換えられます(社会的と政治的をいっしょくたにするとゴッチに怒られそうや…ニュアンスの違い察してください!!!)。何かを好きでいて、どこを支持するかというのは、自分自身の問題ではありません。何を選ぶのか、から、社会へのつながりは始まっています。

 「君がどんな音楽を選んで聴くのかということは、どこかで社会に関わっている。どのような方法で聴くのかについても、聴いた後でどんな気分になるのかということも、どこかで社会に関わっている」
後藤正文『何度でもオールライトと歌え』)

 社会的行為である以上、ある一定の磁場では疎外されます。世の中のどこかには、ロックバンドが好きだと言いづらい、ロックバンドが好きであることでマイナスの影響を被る人がいる場所が存在するはずです。ただ単に相手がバンド嫌いだった、とかから、なんかSNSで叩かれやすくてキツい、メディアの報道が偏見ばかり、クソアフィに槍玉に挙げられる、ファンの中のヤバい人たちやアンチに叩かれる、政治的あれそれ、みたいなそれなりに大きい規模まで。ロックバンドに限らず、あらゆる好きなものについて言えることだと思います。
 私は、マイナスの壁を取っ払いたい。好きなものについて、ちゃんと客観的な目線や倫理観を保ちつつ、偏見や誤解や悪質な印象操作をぶち破って、ファンダムの人間として戦いたい。とか言うと死ぬほど大袈裟だし、別にバンド好きだからって殴られたり殺されたりもしないですが、それでもみんなが楽しく好きでいられるような場に貢献したい。オタクやってて嫌な思い沢山してきたもんね。
 好きなものについて語ることだって、十分政治だと思います。力は弱くとも、言葉には誰かの心を動かす力が(良くも悪くも)あります。言葉を武器にする人間には、それを適切に行使する使命があるのではないでしょうか。
 だから、私はわざわざ全世界の人間が見られる場所で、好きなものについて書き続けています。リスクはあっても、そういうことをやっていたほうが自分も楽しい。楽しい場は自分で作るものだと思っているので。

 プロのライターはそれだけではやっていけないとも思いますが、文章を世の中に出すことは社会に関わることである、というのは、万人に共通だと思います。書きたいだけなら、パソコンの中に置いておけばいいだけです。ネットにアップする、という時点で、多かれ少なかれ社会と接点を見出す目的が(意図的にせよ無自覚にせよ)あるのだと私は考えています。

 なんか散漫になったけど、結局のところ誠意と覚悟を求めてんのかな、ってところに行きついて来ました。気が向いたら加筆します。