幻想俯瞰飛行

生存記録を兼ねて長文を書くためのブログ。文章読んだり書いたりします。 

雑記 『狩人の悪夢』と『ダークナイト』とか 

※『狩人の悪夢』連載最新話の話題に触れています。トリック、推理等に関する言及はありませんが、文中の引用がありますのでご注意ください。



ご無沙汰しております。最近話題のハイローを視聴し始めました(次の映画までにはドラマ完走したい)。あとダンガンロンパ3の展開がつらいです。
10月は観たいドラマも欲しい本も増えるし個人的にも忙しいのでヤバそうです。

有栖川有栖『狩人の悪夢』、相変わらず熱冷めやらず文芸カドカワで連載を追ってます。
事件の新展開と解くべき謎が明確化してくるに伴って、ここにきて明確に「探偵は何故探偵なのか」=「火村英生は何故探偵行為を行うのか」を問い糺すお膳立てが整ってきたな、という感じですね。火村にとって探偵行為は目的か結果か、というテーマ性の話は前記事でしましたが、段々その答えに至る過程が理解できてきました。
火村の内面には探偵行為を手段とする思想(=研究者としての火村英生=人間性)と、目的とする思想(=狩猟者/名探偵としての火村英生=怪物性)の両極が存在し、それらの拮抗こそが『狩人の悪夢』で語られる物語になるのか、と感じます。そしてこれはドラマ版の「自身の怪物性と共存していく話」に接続可能ですよね。原作がどんな回答を打ち出すのか非常に楽しみ。


今回のこの部分。

「火村先生の出る幕はないどころか、お前に打ってつけの事件になってきたみたいやないか」
 彼は、能役者のごとくゆっくり面を上げた。写真班が焚くフラッシュのせいで、一瞬、その顔が人間離れしたものになる。
「そうだな。この現場は、とても面白い。犯人の呻き声や悲鳴がこだましている」

直後の描写(この台詞を口にしながら火村は笑っている)から明確に作者が意図しているのがわかりますが、前述の「人間性と怪物性の相克」における「怪物性」に振れた描写の最たるものがここではないでしょうか。火村の笑み、といえば、『妃は船を沈める』で高柳にそれを指摘されるシーンがありましたね。彼の笑みは火村シリーズにおける怪物性の象徴ともいえるでしょう。
今作の『狩人の悪夢』においては、とにかく目まぐるしくこの両極に振れるシーンが連続する印象があります(全部拾って例示するのはちょっとめんどくさいので、読んでいる方がいたら意識してみてください)。敢えて火村の印象がブレるように描かれている気がするんですよね。このジェットコースター感が意図的だとしたらものすごい挑戦的。


このシーンでなんとなく思い出したのは、バットマンに出てくるヴィランの一人・トゥーフェイスでした。
元は正義を是とするゴッサムの検事で、ある事件をきっかけに顔面の左半分が焼け爛れる怪我を負い、狂気の人格に目覚める男。
自分は寡聞にしてアメコミに疎く、クリストファー・ノーランの三部作で初めてちゃんとバットマンに触れたのですが、『ダークナイト』のトゥーフェイスがめちゃくちゃ印象的だったんですよねぇ。高潔だが悪を憎む気持ちが強すぎてジョーカーに魅入られる処刑人。一人の人間に共存する善性と悪性を象徴するかのような強烈なルックスですよね。
で、なんで思い出したのかなぁと考えてみると、勝手に頭の中で思い描いているイメージもあるんでしょうけれど、そうかこれは「火村英生という人間の人間性と怪物性の両極」が「光と影」でそのまま見た目に投影されているからか、と気づきました。効果としては半分焼け爛れた顔面と同じ。一人の人間の顔(というのは心情とか思想の象徴なわけだよね)に非人間性が上乗せされている。火村がああいった信念を持っている名探偵である以上、人間性と怪物性はコインの裏表でしかない。

ただ、『狩人の悪夢』におけるこのシーンが皮肉なのは、「殺人事件を面白がる」火村の怪物性を露わにするのは闇でなく光、というところなんだよなぁ。
写真のフラッシュというのも意味深で、『狩人の悪夢』はいつになく火村に関する情報がどう流れどう堰き止められているかの話が盛り込んであるので、本当に報道陣にフラッシュ焚かれるような自体になるんじゃないかとヒヤヒヤします。「名探偵と権力」の話は法月綸太郎作品(そういえば実写化ですね!)を読んで「政治的やり取りにちゃんとコミットして戦略をやる探偵すげー!」みたいな気持ちになったので、ちょっと火村シリーズで見てみたい気もします。



余談を重ねます。『ダークナイト』のトゥーフェイスに関する話で、とても興味深いと思った伊藤計劃氏の評。
d.hatena.ne.jp


ハービー・デントという人間の両極を背景美術によって表すサブテクストの力。伊藤さんの『ダークナイト』評といえばこっち(ダークナイトの奇跡 - 伊藤計劃:第弐位相)が有名で、自分自身「世界精神型悪役」の話など結構引用させていただいているのですが、こちらの記事もなるほどなと思わされた記憶があります。
多分この記事のことが念頭にあって、例のシーンを読んだときにダークナイトのことを思い出したんじゃないかな、と思うので、紹介しておきます。


ここまで書いていると、いろいろ特に関係ない考えが出てきました。
・能とか狂言みたいな芸能って遡ると神降ろしに行き着くもので(幻影異聞録の話か???)、「能役者のごとく」という比喩は単純に動きを表したものでもあると思うんですけど、「人間離れ」する先は怪物であり神なのでは、シン・ゴジラだ……(シン・ゴジラ面白かったですね……)
・というかもう割と捻りなく『ダークナイト』のトゥーフェイスと火村共通点ありますね
・でも『ロジカル・デスゲーム』の火村は『ダークナイト』のバットマンと同じ決断を下したんだよなぁ
・背景美術を利用したサブテクストといえば、何を隠そう(?)『臨床犯罪学者 火村英生の推理』に思い当たる場面がある。7話のラストシーン、鍋島の背中を映すカメラが左にパンし、鍋島を境界として故人である緒方が画面左に現れる演出。ちゃんと確認してないんだけど、多分左にしか姿が現れない。
これは人間の立ち姿を境界として画面左が過去、右が現在の領域を表してるんだと思うんだけど、この回『朱色の研究』自体が過去の事件と現在の事件が相関しあうつくりになっていて、ここで過去の因縁との決別として現在と過去の境界が描かれていたんだなあと先の伊藤氏の記事を読みつつ今更ながら思った。



また書きたいことだけ書いてしまったのでそろそろ『切り裂きジャックを待ちながら』の原作・ドラマ比較とか書きたいです。『ペルシャ猫の謎』は割と評判芳しくないせいか、批評的に未開拓の土地すぎて踏み入るのがめちゃくちゃ楽しい。


一方その頃MIGHTY WARRIORSは湾岸地区で着実に勢力を伸ばし続けていた…