幻想俯瞰飛行

生存記録を兼ねて長文を書くためのブログ。文章読んだり書いたりします。 

【再掲】 17歳のきみへ、或いはASIAN KUNG-FU GENERATIONという弱い魔法



 以前どこかで何かに応募して賞をもらった文章、それらの過程にブチギレてアカウントごと消したので長らくネット上から下げていたのですが、なんかそろそろいいかなと思うのでブログに再掲します。
 当時ご反応くださった方々、ご感想を送ってくださった方々、ありがとうございました。思う所はいまでもゼロではありませんが、これを書いて世に出したこと自体は結果的に良かったなと思っています。
 あと、これを書くにあたって多大な影響を受けている月の人さん、本当にありがとうございました(ファンの私信)


17歳のきみへ、或いはASIAN KUNG-FU GENERATIONという弱い魔法



 やあ。元気にしているかい? 
 いまでも思い出せる。17歳になった日の僕――つまり、きみだ――は、誕生日をアジカンのライブで過ごした。あの年の酔杯はライブハウスツアーで、会場は確かZepp Tokyoだった。海風が寒かったことをよく覚えている。高校生だし、ちょうど期末試験の試験休みの期間だったんだろうね。
 ASIAN KUNG-FU GENERATIONというロックバンドを聴き出したのが14歳、ラジオの聴けるCDコンポを手に入れたことで彼らのラジオ番組を耳にして本格的に追いかけ始めたのが16歳になってから。多分、楽しい盛りだったんだろうな。
 あの時のこと、鮮明に思い出せるよ。後輩と一緒に取ったチケットは50番台。運よくベースの山ちゃん側の前から二列目ほどまで行けたんだよね。押しつぶされて大変だったけど、メチャクチャに楽しかった記憶がある。当時はライブで披露したばかりだった新曲「No.9」もとても良かったし、何よりきみはそのライブで山ちゃんのピックを取ることができたんだ。あの興奮は忘れられない。一生涯、記念に残る思い出だね。勿論、今でもそう思っている。
 きみは、アジカンのことをどう思う?
 好き? そうだね。今の僕だって同じだ。大好きだ。
 ただ、僕はきみにひとつだけ、残酷なことを告げる必要がある。

 アジカンは、きみを救わない。

 驚いたかな? あるいは気分を悪くした? 少なくとも、この物言いにきみが肯定的な感情を持つことはないだろう。それでも、どうかこの先の言葉を聞いてほしい。僕は今でもアジカンが大好きだし、ゴッチのことを敬愛している。僕の言葉が信用に値する証左としては、それで十分だろう。

 ときに、きみは何故アジカンが好きなのだろう?
 もう少し言い方を変えると、アジカンというロックバンドの魅力はどこなのだろう?
 そんなの一言では説明できない、ときみは言うだろうね。僕も同感だ。
 それでも、僕が思うに、アジカンの強みのひとつは、その表現が必ず「だれか」に接続しているということだ。

 きみは「君繋ファイブエム」をよく聴いているよね。ということは、そのアルバムタイトルが指すテーマのこともよく知っているだろう。現代社会の中で希薄化していく「君と僕の半径5メートルのリアリティ」に立ち返ること、それこそが彼らが謳った現実との接続方法だった。その実感をどれほどきみが意識していたかはわからないけれど、これはアジカンというバンドの根源的なテーマとして、今に至るまで歌いつがれている。
 きみはまだ「ワールド ワールド ワールド」の発売に立ち会っていないから、彼らの「社会」「世界」との立ち向かい方について考える機会もそうそうなかっただろう。びっくりするかもしれないけれど、社会との接続不全の象徴として「ワールドアパート」でアメリカ同時多発テロ事件のモチーフが使われたことの延長線上で、「ワールド ワールド ワールド」では現実社会に存在するインシデントがいくつも下敷きとして使われることになる。「No.9」という曲名でうすうす気づいているように、反戦とか、米軍基地問題とか、そういう話題が盛り込まれてくるわけ(しかも、歌詞としてはいい意味でかなり巧妙なやり方だ)。
 きみの大好きな「ファンクラブ」は、きみが感じた通り、非常に内省的なアルバムだった。「鬱アルバム」なんて言われるけど、彼らが深く己の裡に潜ったのは、その先の光、ひととの繋がりを得るためだった。「君に伝うかな 君に伝うわけはないよな」(「暗号のワルツ」)という絶望的な結論から始まったアルバムは、「手を伸ばして意味の在処を探して 見失った此処が始まりだよね そうだね」(「タイトロープ」)という反転によって終わる――ちなみにこの「喪失と獲得の両義性」も、アジカンの重要テーマのひとつだ――。
 「だれか」と繋がれない絶望すらはじまりと見做して、「心の奥の闇に灯を」(「センスレス」)灯す。その覚悟を決めて前に進んだアジカンの行く先が、「ワールド ワールド ワールド」という色彩豊かなアルバムだったことは、僕は救いだと思う。そして、彼らが選んだ「だれか」に繋がるための手法も。

 「君と僕の半径5メートルのリアリティ」を取り戻した僕たちが向かう先は、「だれか」であり社会だ。

 「ワールド ワールド ワールド」にみられる現実社会の混迷や諸問題、その最中にあって社会に存在する僕らとして「だれか」にコミットするのを選び取ること。その手法としてのロックンロールがあるということを、「新しい世界」は歌っていた。その為ならば、音楽としてどう位置づけられるかなんてたいした問題じゃない、ってこと。月並みな言葉だけど、ロックだよね。「出来れば世界を僕は塗り変えたい 戦争をなくすような大逸れたことじゃない だけどちょっと それもあるよな」(「転がる岩、君に朝が振る」)の結論としての「目の前の景色を全部塗り替えるのさ」「新しい世界」(「新しい世界」)。きみも僕も、世界を変えられるほど大仰な存在ではないけれど、手近なところから良くしていくことはきっとできるんだ。世界を変えるんじゃなくて、新しい世界を。
 続く「マジックディスク」は、いろいろな意味で問題児みたいなアルバムなんだけど、きみには是非ゆっくり時間をかけて聴いてもらいたい。かつて「繋いでいたいよ」(「未来の破片」)と歌った彼らが、その姿を「屍」と形容し、「『繋いで』いるような素振りに掴まって浮かんでも 死ぬまで細胞は個の壁を乗り越えないだろう」(「イエス」)とまで斬り捨てるその様は、もしかしたら酷く衝撃的かもしれない。ゼロ年代という内省の時代への決着ともいえる、自意識の葛藤を終わらせようとするこのアルバムは、日本のロックシーンにおいて非常に意義のあるものだとは思うけれども、同時に捨て身の痛々しさのようなものも感じる、中々に複雑なアルバムだ――そして、彼らの「自意識の檻からの脱出」はここでは完結していない、と僕は感じる。

 アジカンの表現が必ず「だれか」に接続していること。社会への視座。そういうテーマだと、ここから先はどうしても避けては通れない話になる。
 2011年、この国を大災害が襲った。東日本大震災
 マグニチュード9.0を記録したこの大地震の余波は、いまだにこの国の各所に残っているほどだ。君は関東で生まれ育っているから、おそらく生まれてきて遭遇した中でいちばん大きい地震がこれになるだろうね。ちょっと教えてしまうと、アルバイト先の会社で遭遇して、帰宅難民になって、携帯の充電が切れて、大変な思いをするんだよ。そうなりたくなかったら、携帯の充電、常日頃からちゃんとしておいてほしい。
 そんな経験なんて些細なものになるくらい、この大災害の被害は大きかった。きみにも東北出身の友人ができるから、より身近なものとして感じることになるだろう。当たり前だけど、災害は社会と密に関係している。政治や福祉、国際関係、経済、教育……なんでもいいけど、切り口は本当にいろいろあるし、そんな切り口をこの国の傷口として晒すことになるのがあの災害だった。もちろん、芸術やエンターテイメントがその影響を受けないはずもない。色々な動きがあったよ。「シン・ゴジラ」って映画はとても良かったから、公開されたらすぐ観に行くといい。
 アジカンの話に戻ろう。「マジックディスク」リリース後のツアーで険悪な状態に陥るほど、彼らは緊迫していた。きみもうすうす感じているだろうけれど、アジカンってずっと仲良しでいられるようなバンドじゃない。四人が四人、音楽に対して真摯で譲れないものを抱えているがゆえ、ときにぶつかり合うことも多かったはずだ。いつだったか、きみは「五年後、アジカンが解散していないといいな」なんて言っていたね。そういう雰囲気を、ちょっとは感じ取っていたのだと思う。
 ツアーの最中で、あの災害が訪れた。65ヶ所75公演を予定していたそのロングツアーは、70公演を終えたところで中止に見舞われる。そういった事実の羅列だけじゃなくて、アジカンは震災を「契機に」動く。離れかけていた四人の心が、ふたたびアジカンというバンドに集まることになるんだ。例えば震災前からゴッチが原発問題に関心を抱いていたことは当時の日記を見ればわかるし、その延長線上ともいえるのだけれど。
 2012年の「ランドマーク」は、「マジックディスク」に続き、また異なる意味でも時代の反映といえるアルバムだ。チャットモンチーのえっちゃんをゲストに迎えた「All right part2」にみられる「オールライト」概念=ロックンロールのもつ無限の肯定と赦し、またある面では「N2」「1980」のような鋭い現実社会や己への懐疑、その混沌とした同居はまさしく震災後のアジカンらしいそれだったように思う――そして、アジカンの、僕たちの現実への困惑そのものでもある。最後のトラック、「アネモネの咲く春に」で歌われる深い喪失と絶望は、例えば過去の「暗号のワルツ」とはまた違った悲しさに満ちていて、これまた名曲。じっくり味わってほしい。

 そして、このこともきみに伝えなくてはならない。
 きみはこの時、アジカンを熱心には聴かなくなっている。

 それが何の為だったのか、今となってはよく思い出せない。
 17歳のきみはよく夢想していたことだろう。「大学に入って、アジカンみたいにバンドが組みたい」。綺麗な夢だと思う。きっと、同じような夢を抱いたひとはたくさんいるはずだ。だが、詳しいことはここでは語らないけれど、それは叶わない。きみは、ゴッチみたいにはなれない。
 悲しいね。あれだけ憧れて、あれだけ焦がれたのに。中学生の頃、きみはたくさん思い悩んで、苦しんで、いつかこの痛みのぶんだけ報われるに違いないと信じて、すがるようにアジカンを聴いて生きてきたのに。それも、思考停止の肯定じゃなくて、彼らが望むような「いいリスナー」「いいロックファン」になろうと頑張って。本当に懸命に、熱心に。

 何なんだよ、「いいリスナー」「いいロックファン」って。

 そうしてきみは挫折を経験した。高校球児として挫折したゴッチと同じ、なんて聞こえのいい言い方はできなくもないけど、きみの場合、単なる夢想家であって努力の果てのそれじゃない。敢えて酷い言い方をするのなら、只の阿呆だ。
 きみは挫折から目を背けるために、他のことに熱中したり頑張ったりした。それはそれで、よかったよね。それでもまだ、アジカンを聴くと心の傷が開いた。周りからは「別の趣味ができた」とか「大学が忙しい」とか「震災以降のアジカンがあまり好きじゃないの?」なんて思われてたみたいだけど、ほんとうはただのくやしさだったのかもね。

 ほらね。アジカンは、きみを救いはしなかった。

 きみが――僕がアジカンと再会したのは、原点回帰のストレートで骨太なロックンロール・アルバムである「Wonder Future」(「オペラグラス」は名曲であり、ゴッチが笑ってしまうようなこのイントロこそが、「アジカン」である意味なのだ)を経て、再録「ソルファ」のときだ。
 12年を超えた再録がどういう意味なのかなんて深く考えずに、僕はこのアルバムを手にとった。懐かしいから、という単純な理由だ。アニメ「僕だけがいない街」の主題歌の、「Re:Re:」のセルフカバーが良かった、っていうのも大きい。
 それまでも、ライブに行ったりインタビューを読んだりこそしないものの、アルバムが出るたびに聴いてはいたんだよね。ただ、この再録「ソルファ」がメチャクチャに良かった。あの頃の、若々しさのなせる技である「ソルファ」が、こんなにきちんとアップデートされていることに驚いた。音像もくっきり立体的になって、ギターの音色には大人の色気があるし、ゴッチの声も深みを増した。
 それで、20周年ツアーの武道館公演のチケットを取った。あとはズブズブ。今に至る。
 去年末に出た「ホームタウン」ってアルバムが、また良いんだよ。多分、17歳のきみが聴くことができたら、びっくりするとは思うけどね。でも、「あ、これが未来のアジカンなんだなぁ」って納得してくれる気もするよ。
 「君と僕の半径5メートル」の敷衍である「だれか」への接続も、もちろんアジカンはずっと拡張してきている。きみには是非、足を緩めて雨を超え、「だれか」に出会う曲である「UCLA」を聴いてほしいな(ちなみに、このタイトルはレコーディング時にドラムの潔の服に書いてあった言葉をそのまま取ったらしい。おじさんになっても遊び心があるでしょう)。南北朝鮮を下敷きにラブソングに仕立て上げた「さようならソルジャー」みたいなものもあるし、「ボーイズ&ガールズ」という「喪失と獲得の両義性」テーマをやりながらも、いまのアジカンにしか歌えない未来を目指す歌もある。
 「ホームタウン」はパワーポップというジャンル的原点回帰でもあるけれど(ウィーザーリヴァース・クオモとの共作もあるんだよね、すごいでしょ)、サウンドメイキングといいテーマの咀嚼の仕方といい、新規性も十二分にあるアルバムだと思っている。すごいんだよね。結成20年超えても、アジカンってちゃんと進化してるんだよ。だから飽きない。
 ギターの建さんも禁酒したしね(きみ、もしかしたらこれが一番驚くんじゃないかな?)。

 ここまでアジカンのそれからを語ってきて、彼らの持ち味が「だれか」への接続を目的とした表現であることはわかってくれたかな。私見だけど、少なくともいまの僕が何故アジカンを好きなのかと訊かれれば、このあたりを答えとして返すだろう。17歳のきみはまだそこまで深く考えていないだろうし、言語化もできていないかもしれないけれど、少なくともアジカンが「君と僕」の関係性だけ語って終わるバンドだったのなら、ここまで人生を揺るがされてはいないだろうね。良くも悪くも。
 アジカンというバンドに、強固に、頑固に、ひとつの芯が備わっていたからこそ、きみは大きく感動し、多大に影響を受けたのだろう。
 それがたとえ、きみの世界をきみだけで閉じさせない、「だれか」とコネクトしていこうとするものだったとしても、だ。

 アジカンは、きみを救わない。
 きみの人生に結論なんて出さない。きみにこうすべきとも言わない(そんなもん、きみが勝手に内面化してるだけなんだ。僕を見ろ。ゴッチにだって従わないぞ。上司には従わされるけどな)。きみのつらさ、悲しみをピンポイントに掬い上げてなんてくれない(それに近いことを感じることはあるけど、それはアジカンが推進力になってきみがきみを掬い上げているんだろう)。無条件に肯定もしてくれないし、癒してもくれない。当たり前だけど、ロックンロールは精神性になりえても宗教じゃないんだよな。
 アジカンを好きでいると、つねに「だれか」との繋がりに巻き込まれてしまう。面倒くさいかもしれないけれど、でも、それもいいところのひとつだと僕は思っている。
 きみにだって、心当たりはあるだろう? 17歳にもなれば、社会というものがどういった実在を伴っているのか、だいたいわかってきていい頃だろうから。
 そうだ。アジカンはきみを救わないけど、きみはアジカンを経て、ほんのちょっとだけ変わった気持ちになれたじゃん。それは素晴らしいことだと、僕は思う。まだまだ狭いきみの視野に「だれか」が組み込まれていったのは、成長だ。だから僕は、きみが十代でアジカンに出会えたことを、誇らしく思う。そして、アジカンに、とりわけゴッチに、ありがとう、と思っている。

 アジカンが世界を変えなくても、きみを救わなくても、その弱い魔法によって、きみは前に進めたんだ。

 いろいろと苦しい話もしてしまったかもしれない。実のところ、きみのその後の人生は、まったくもって順風満帆とはいえない。かけがえのない友、楽しいこと、そういった宝は沢山あるけれど、それと同等どころではない、しんどいことのほうが多い。いまの僕だって、完璧に楽しい人生を送っているわけでもない。つらいよねえ、人生は。
 でも、ありがたいことに、アジカンは続いている。そしてきみは、アジカンを好きでい続けている。それって、ちょっとだけ希望にならないかな? いろんなつらさを抱えている十代を超えた先の、ご褒美みたいなもの、って考えられないかな? ま、どう捉えるかは、17歳のきみしだいだ。

 ゴッチが言ってたんだよ。ロックンロールは、例え荒野からでもオールライトと鳴らすものなんだ、みたいなことをさ。

 だから、大丈夫だ。アジカンもそう言ってるしね。
 そういうわけだ。きみは身体が弱いから、体調には気をつけて、ま、ゆっくりとやっていってほしい。
 じゃあね。

 追伸。
 五月に出た、「解放区」っていう曲が、ものすごくいい曲なんだ。アジカンの歴史の中でも、抜きんでていると思う。ただ、この曲がどうすばらしいかは、ここ数年のアジカンの「音楽と自由」ってテーマへの向き合い方の文脈の上に知って欲しいから、きみはちゃんと、この曲のリリースまで生きるんだよ。そうしたら、いいことがあるぜ。


(2019/11/29 某所掲載)