幻想俯瞰飛行

生存記録を兼ねて長文を書くためのブログ。文章読んだり書いたりします。 

ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第一話を観ました

 お久しぶりです。というわけで有栖川有栖ファンとしては外せない連ドラ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』一話『絶叫城殺人事件』を観ました。
 キャスト発表された当初は、斎藤工といえば『相棒』season10の正月SP(相棒ファンなら周知の回ですが何度観ても神回ですね)、窪田正孝といえば『デスノート』、くらいの認識でしたが、「おっ!? コレはアリじゃねーの!?」と思わせてくれる軽快なコンビネーションと丁々発止のやり取りが気持ちいいドラマでしたね。
 演出は最近のミステリドラマにありがちなシャーロックや~~~!これシャーロックや~~~!感が強かったものの、タイポグラフィ演出などはロジックを重視する本格ミステリドラマとしては最大限わかりやすい見せ方を頑張っているように感じました。
 各所で言ってますが、「連ドラとして観てて面白いのは推理より圧倒的に自白の時間」なんですよね。なぜかというと、単純に文字だと何回も読み返して納得できるけど映像だとわかりにくいから、だと個人的には思ってます。なので、綺麗なロジックや驚天動地のトリックより人間ドラマのほうが面白いじゃん、となってしまうわけです。
 その辺に対してこのドラマは、推理の過程の演出での補強、ブラフ犯人の設置、また動機部分の補足等、今の所割といい線いってるんじゃないかな?と感じました。ただ、これはミステリ好きかつ原作既読者の意見なので、違う立場の人が観てどう思うかはわかりません。今のところ周りでは好評なのでこのまま突っ走ってくれ~。


 以下はドラマの感想とか元ネタ回収とか考察とかメモです。
 これはあくまで原作ファンのお遊びであって、小説のドラマ化は原作に忠実であれば面白いわけではなく、また原作の答え合わせとしてドラマを観るというのも面白くないと思います。単体で面白いか、そして原作に手を伸ばしたくなるかどうかが一番重要。なのでわかる人がニヤッとするためのものだと思っていただければ幸いです。
 ネタバレ的な配慮はしておりませんので注意してください。
 ページ数は手許の本からなので旧版・新装版バラバラです。あまり参考にしないほうがいいです。

☆ドラマ冒頭

『暗い宿』収録『201号室の災厄』アレンジ。
 原作ではロックミュージシャンだったポジションをマジシャンに(空中浮遊ネタはそのまま)。
 原作中で火村が披露する仮推理をメイントリック化。
『201号室の災厄』は密室劇であり、この仮推理を犯人に提示すること自体が重要。なので、これをメイン推理にしてしまうといわゆる(?)科学捜査介入問題が浮上してくる。そこで一話冒頭の短い形式にしたのかな、と思いました。状況証拠の盛り込み方もそのためかな。
 他局だけど『スペシャリスト』も冒頭解決やってましたね……

「馬鹿だよ。完全犯罪のつもりだっただろうが、過剰な演出で飾りすぎだ」
 火村の声が犯人に聴こえたのは『怪しい店』収録『ショーウインドウを砕く』のラストからでしょうか。この記述は 火村の恐ろしさ・得体の知れなさを示すわかりやすい箇所なんですが、ドラマ冒頭に持ってくるのはキャラクターの説明として巧いですね。
 ドラマ版は火村英生という人物の異常さ・恐ろしさ・狂気の部分がわかりやすくピックアップされているように感じます。

☆「この犯罪は美しくない」

 決め台詞。プロデューサー発案だとかなんとかどっかで見ました。
 よくわかんないですが「人間の不確定な意志が介在するから完全犯罪に綻びが生じる」という意味にもとれます。となると「完全な犯罪などない=美しい犯罪などない」という反語なのかもしれない、とはちょっと思いました。
 まああんまり深く考えるところじゃないと思う。
 ちなみに原作の火村はこれに類する発言はしてないと思う。多分してない。してないんじゃないかな……
「実に面白い」みたいなもんですかね。

☆「男は、学問にかこつけて人を狩る」

『ダリの繭』文庫p349より。

「火村先生の繭は何や?」
 彼は大きな欠伸をした。そして――
「学問にかこつけて人間を狩ることさ」
 あまりにも自嘲的な口調だった。

 ビーンズ文庫版では確か帯のキャッチフレーズにもなっていた台詞だったはず(手許にないのでうろ覚え)。
 火村の行為を端的に表した一言。
「ハンター」という喩えも割と作中に出てきます。

「あんたがハンター気取りの名探偵だってことだよ。犯罪者を蝶々みたいにコレクションして喜んでる正義の味方か。刑事でもないのにおせっかいな男だ。権力に飢えた下衆じゃないか。私の知り合いの男はな、あんたのことを化け物だと言ってたよ。天才の譬えじゃない。ただの化け物だ。当事者でもない、警察官でもないのに、犯罪の中に飛び込んできて、犯人を狩り立てて喜ぶなんてこと、まともな神経ではないものな」

(『ブラジル蝶の謎』収録『ブラジル蝶の謎』p68)

「いえ、有栖川さんの言うとおり、先生は笑ってなかったのかもしれません。けれど、顔の筋肉がほんの少し動いたんです。何か感情の変化があったことだけは間違いありません。私には、ハンターが獲物を照準に捉えた瞬間の表情に見えました」

(『妃は船を沈める』p235)

☆講義シーン

 ドラマでは物好きが受講する科目みたいですが、原作では人気講義っぽいです。

定員二百人ほどの階段教室はおよそ五割の「入り」だった。十二月二十四日という時期、しかも一講目だということを考えればまずまずの人気ではないか、と思う。

(『46番目の密室』p12)

「そんなことはありません。火村先生の講義は人気があるんですよ。採点が厳しいので有名だから、聴講だけする学生が多いんですけれど。内容が濃いだけじゃなくて、私語をするような学生は退室させるので、とてもいい授業が受けられます」

(『朱色の研究』p220)

 逸脱行動論というとマートンとかそのへんですかね……。講義で触れたことあるんですけど完全に忘却しました。助けて犯罪社会学クラスタ

☆下宿シーン

 映画『船を編む』みたいなのを想像していたらめっちゃ豪華でシャレオツでござるの巻。
 多分三人配置して映してごちゃごちゃにならないために広く取ったんでしょうなあ。それにしても全体的にオシャレ京都ドラマだ……。

 アリスの作品『桜川のオフィーリア』は江神シリーズの実在の短編名から。
 知らない人のために説明しますと、有栖川作品には火村シリーズと江神シリーズという二大シリーズがありまして(最近はソラシリーズもあるよ!)、火村シリーズ(作家アリス)シリーズは学生アリスが、江神シリーズ(学生アリス)シリーズは作家アリスが執筆しているという設定になっています。
 このネタ、ネタバレ扱いする人はネタバレに含めるんですけど、読んでても細かい記述拾わないとわからないし明言されてるわけでもないのでネタバレになるのかな~まあこの記事はネタバレ気にしないって書いたからいっかな~という感じです。以上。
 洞察はいいぞ

江神二郎の洞察 (創元クライム・クラブ)

江神二郎の洞察 (創元クライム・クラブ)

『金色の館』はなんだろう……綾辻行人館シリーズ的なノリかな……


 醤油ソース議論ですが、「火村がなんでも醤油かけるのは北海道という寒い場所出身だから、アリスがソース派なのは大阪出身だから」という説を見かけました。もしかして育ちの違いを味覚で表している可能性が微レ存……?

☆捜査シーン

 視聴中のメモに5回くらい「ヒガンバナ」って書いてあった。被ってない?大丈夫?堀北真希と共演する?
 小野は警部補らしいし部下に指示してるシーンがあるので、鍋島が係長小野が主任とかなんでしょうか。
 京都府警のキャラクターは原作の京阪神各県警のキャラクターをミックスした感じがしますね。鍋島は船曳警部+鮫山警部補、小野は高柳巡査長とあとちょっと野上巡査部長の要素もある?
 殺人現場を見る火村の顔を見て驚く小野の場面は前述の『妃は~』のシーンを彷彿とさせました。

☆「臨床犯罪学者」

 このフレーズの説明をちゃんと一話冒頭に持ってきたのはえらい。
 火村シリーズのメディアミックスで割と不満になりがちなのが、アリスの造語であるこの語が何の説明もなしに用いられることだったんですよね。あと「フィールドワーク」も使い道が普通と違うので説明してほしい所。
 原作の記述はこんな感じです。

 彼が言うフィールドワークとは、犯罪の現場に実際に飛び込み、警察の捜査に参画することだった。火村英生は文献を渉猟して論文をまとめたり、教壇に立って学生に自分の知識の切り売りをするだけの学者ではなかった。法律学、法医学、心理学にも通暁した彼は、犯罪捜査の実践―――探偵だ――にも豊かな才能を有しており、警察の捜査にしばしば加わっていたのだ。医学の世界には、基礎医学者に対して、患者の治療の実践に携わる臨床医学者という存在があるが、それに倣って、私は彼を『臨床犯罪学者』と呼んでいる。

(『ダリの繭』p14)

 また、アリスの説明した火村の推理方法は原作『絶叫城』から。

「とか言いながら、プロファイリングを応用しているんじゃないのかなぁ。私が見たり有栖川さんから聞いたりしたところからすると、火村先生は事件の全体を観察して犯罪のパターンを見抜き、過去の経験と照合することで真相を透かして見ようとしていませんか?」
 それはどうだろう。火村がどのように頭脳を働かせているのか、凡夫の私にはよく理解できない。しかし――
「おかしな表現になるけれど、事件の全体を観察して彼が見抜くのは、犯罪のパターンというよりも……犯人が拠り所としたものやと思うんです。ある時は手の込んだ偽装工作であったり、またある時は見えにくい犯行動機であったり……」

(『絶叫城殺人事件』収録『絶叫城殺人事件』p311)

☆絶叫城

 コ ン ト ロ ー ラ ー E L E C O M
 絶叫城の元ネタはクロックタワー説は結構見ましたが、割とそんな感じはしますね(やったことない)。
 零とかを想像していたので思ったよりローポリでちょっとびっくり。PS2くらい?と思ったけどMGS3とかもPS2だしなあ……
 30万本はホラーゲーとしては割と売れてる方ですね。ゲーム会社名が変わってるのは実在の企業と被るからかな?

 PVでもあった火村が右手を挙げる場面っぽいのが原作読んでたらあったので一応書いときます。

船曳警部の机の脇に立っていた火村がひょいと片手を挙げた。

(『ロシア紅茶の謎』収録『動物園の暗号』p76)

☆アリス自室

 みんな大好きカナリアネキ
 隣人のカナリアの飼い主・真野早織は『ダリの繭』で初登場、その後もシリーズにちょくちょく出てくるレギュラーポジションのキャラクターです。ドラマの女優さんはクレジットの位置的に橘美緒さんでしょうか? 綺麗な人でしたね。ドラマでも彼女がかかわる回をやってほしいもんです。

「今晩は。今、よろしかったでしょうか?」
 勤め先から帰ったところなのか、ラベンダー色のスーツ姿の彼女、真野早織は遠慮がちに尋ねた。右手に白い鳥籠を掲げている。それを見るなり、彼女の要件が判った。

(『ダリの繭』p58)
 彼女のカナリアは鳴かないカナリアという設定だったはずですが、ドラマ版では思いっきり鳴いてました。仕方ないね。

☆「憎むべきは犯罪者であって、犯罪ではない」

 ドラマ版火村のモットー。「犯罪者を憎み、犯罪を愛する」探偵という設定。
 この設定自体は原作の「人を憎んで罪を憎まず」というフレーズがベースになっているものだと思われます。

『廃馬は撃って楽にしてやれ』という慈悲心を犯罪者に対して抱くことはない、と彼は言う。そうなのだろう。これは私の誤解かもしれないが、彼は『犯罪者を憎んで、犯罪を憎まず』と考えているのではないか、と私には感じられたこともある。いつだったか、テレビで熱弁をふるう死刑廃止論者を冷ややかに眺めていた。

(『ダリの繭』p88)

 何故、犯罪者をほうっておかないのだ?
 人を憎んで罪を憎まず、などと言って嗤うのだ?

(『海のある奈良に死す』p285)

「私もそう思う。火村君の犯罪観について興味があるから、聞かせてほしい」
「犯罪観?」
「そう。『人を憎んで罪を憎まず』って言うたことがあったでしょう。あれはどういうことか詳しく聞きたい」

(『菩提樹荘の殺人』収録『探偵、青の時代』p178)

 原作の火村は特に犯罪を愛している感じはしない(犯罪学の研究も面白いからしているわけではない)のでドラマ化にありがちな誇張ではありますが、じゃあ原作の火村って犯罪を憎んでるの? と考えると「犯罪を憎んでいる」という記述と「犯罪者を憎んで犯罪を憎まず」という記述がコンフリクトするんですよねぇ。まあ後者は慣用句的用法ではあるんですけど。
 個人的な解釈では、「人を憎んで罪を憎まず」というのは「罪を憎んで人を憎まず」の逆、つまり「犯した罪ではなく罪を犯すに至った人間を憎む」と捉えています。犯罪を犯すに至る過程はあまねく全ての人間が選びうるものであり、だとすれば罪に至る要因を抱えることではなく、その道を選択した本人の問題であろう――と。これは火村シリーズ全体に通じる「人は誰しも犯罪者になりうる」というテーゼとも接続が可能です。
 だから、まあ、誇張ではあるけど、無根拠ではないかなあ、と思います。最初はびっくりしたけどな!


☆「人を殺したいと思ったからだ」

 火村の行動原理。そしてシリーズ最大の謎(作者が最大の謎と思っているとは言ってない)。
 このフレーズが作中で登場するたびに有栖川ファンの脳内には「クエスト達成」の文字が出現することで有名。
 これ、「原作では『人を殺したいと思ったことがあるから』だからドラマオリジナルっすよね?」という意見を聞いたんですけど、割と原作でも表記揺れてないですか?
 と思ったので調べてみました。

  • 「人を殺したい、と私自身が思ったことがあるからです」(『46番目の密室』)
  • ――俺自身、人を殺したいと真剣に考えたことがあるからだ。(『ダリの繭』)
  • ――俺は人を殺したいと渇望したことがあるからだ。(『海のある奈良に死す』)
  • ――俺も人を殺したいと思ったことがあるから。(『スウェーデン館の謎』)
  • 「人を殺したいと思ったことがあるから」(『ブラジル蝶の謎』収録『ブラジル蝶の謎』)
  • 「俺も人を殺したいと思ったことがあるから」(『朱色の研究』)
  • 「先生は、人を殺したいと思ったことがありますか?」

(中略)「あるよ。――それがどうかしたか?」(『朱色の研究』)

  • 彼は言う。自分はかつて人を殺したいと渇望したことがある、真っ黒く暗い淵に立ったことがある。そこから引き返したがゆえに人を殺す者が赦せないのだ、と。(『絶叫城殺人事件』収録『絶叫城殺人事件』)
  • 「俺自身が人を殺したいと思ったことがあるから」(『マレー鉄道の謎』)
  • 保護者の前でも聞いていられる穏当な回答だったので、私は安心した。さすがに「おじさんは人を殺したいと思ったことがあってさ」と語るとは思っていなかったが。(『乱鴉の島』)
  • 「人を殺したいと思ったことはあるが、自ら命を絶とうと思ったことはない。一度も」(『長い廊下がある家』収録『ロジカル・デスゲーム』)
  • 彼が犯罪学の道に進み、犯罪捜査に加わって<臨床的>にその研究をするようになった動機は、自分自身が人を殺したいと本気で思ったことがあるからだ、という。(『菩提樹荘の殺人』収録『アポロンのナイフ』)
  • ――人を殺したい、と思ったことがあるから。(『菩提樹荘の殺人』収録『菩提樹荘の殺人』)
  • 「火村先生は、人を殺したいと思ったことがあるから人を殺す人間が赦されへんのやそうですね」(『怪しい店』収録『怪しい店』)
  • 彼が狩人のように犯罪者の臭跡を追いかけ、法の裁きを受けさせようとする動機について、かつて自分自身が人を殺したいという願望を持ったことがあるからだ、と言う一方、いつ誰に対してどのような殺意を抱いたかは黙して語らない。(『鍵の掛かった男』)


 バラバラやんけ

 こいついつも人を殺したいと思ったことがある話してんな
 表記ブレは割とあるけど「思ったことがある」は割と定型ではあるかなーとは思います。ただ、『ブラジル蝶』を読む限り探偵行為の理由を問われる度にこの答えを返しているようなので(ええー……)、形を変えて同じ意味の言葉を違う表現で何度も口にしているのではないでしょうか。
 そう考えると表記が原作と違う云々とかもうどうでもよくなってきた。つうかなんでこんなん真剣に調べてんねん……徒労を感じるので二次創作とかする人はなんとかして役立ててください。



 なんかまあそんな感じで原作との比較など書いてみました来週はもうやりません。
 愚かにもドラマを観て初めて気付いたんですけど、『絶叫城』は作中のゲームの「クリアしたら主人公が狂気の城を引き継ぐ」という設定が、物語の「弟の連続殺人犯と言う肩書きを姉が引き継ぐ」ことに重ねあわされているんですねこれ……。やっぱり巧い話だなあ。そして奇しくもマスメディアの安易なゲーム悪影響説批判・「心の闇」言説批判を一話に持ってくるこのドラマ、次回が楽しみです。

絶叫城殺人事件 (新潮文庫)

絶叫城殺人事件 (新潮文庫)

原作も見とけよ見とけよ~

私生活が多忙で更新を怠りすぎていました。
レビューだの評論だの小説だのいろいろ書きたい文章はあるんですが、なかなか形になっていない状態です。休みの日に図書館にでもこもろうかな……。

有栖川有栖ファンとしては忙しいシーズンでしたね。
火村シリーズ新刊『鍵の掛かった男』、大変楽しく読みました。シリーズ内でも五指に入れていい名作なんじゃないかな? 人によってはトップになるかもしれません。
論理的に解決できる殺人事件の謎/論理では解き明かせない不条理な人間の謎、という二種の「ミステリー」を、一人の男の死の真相を探る話として巧いこと絡めて物語にまとめ上げる手腕は流石。今回は、本格ミステリファンにも訴求力があることはもちろん、普段ミステリを読まない人にも人間ドラマとしてアプローチできていて、なおかつどちらが疎かにならず結びついているのがとてもよかったです。
読み終わった勢いで読書メーターにアレコレ雑感を書きましたが、本格ミステリディスコミュニケーションの文学ととらえた上での、それでも人はコミュニケーションを希求する、という物語であると感じました。基本的に明るい読後感がそれほど多くないシリーズにおいて、この作品が前向きなテーマ性を提示しているように感じたんですよね。(例えば『ダリの繭』なんかは典型的に都市小説を意識して書かれたディスコミュニケーションの話なんですけど、テーマとして相互理解の不可能性でとどまっている気がします)
そのあたり、作中の言葉を引き合いに出しつつまた詳しく書評を書きたいものです。
そして火村シリーズといえばまさかのドラマ化! 来年一月が楽しみですね。
前にブログの記事でも触れた『すべてがFになる』ドラマは個人的に楽しめた作品だったので、新本格ドラマ化のいい流れが繋がるといいな、と思います。今やってるアニメも面白いです。

・今夏は何をしていたかというと、例年通りミステリーナイトに参加して(今年はなんと仲間6人で参加出来ました。人数が多いと盛り上がりますね!)惨敗を期してきたり、あとは『ファイアーエムブレム』25周年のコンサートに参加してアツい夏を過ごしたりしてきました。何を隠そうFEシリーズ大好きなもので、過去作から近年作までプレイ時の思い出を回顧しながらワクワクしたり感動で泣いたりしていました。
ファイアーエムブレムといえば、最新作のifも非常に面白くプレイしております。ゲームファンとしては対象層によるバージョン分けという画期的な試みに着目したいですし(システムもマップもストーリーも異なるというのは中々ないやり方です)、物語好きとしてはゲームにおけるナラティヴ概念とパッケージングの時点でプレイヤーに選択の余地を与えることの相関性について考えていて面白い題材やなあ、と。このシリーズはナラティヴ概念で語れることが結構ありそうなのにそういう分析がないっぽいので、その辺時間があったら文章にしてみたいです。ストーリーが重厚と言われがちなゲームですが、どちらかというとプレイヤーが独自に生成するナラティヴを重要視しているゲームだと思うんですよね。

・日々生きるのに精いっぱいですが、なんとか生きてます。
小説書きたいです。

正義の射程――『劇場版PSYCHO-PASS』を観ました

☆はじめに

長々と放置していましたが、あけましておめでとうございます。
本当は昨年12月の文学フリマの感想とかちゃんと書きたかったんですが、いつのまにか時間が過ぎていました。怖い! 文フリで手に入れた同人誌も読んでるので後々ちゃんと文章にしたいですね……。

で、ここ数か月何をやっていたかというと、わりと映像に対する熱が上がってたので、huluに加入したこともありドラマなりアニメなり映画なりをぼちぼち観てました。個人的に数年に一回刑事モノブームがくるんですが、今回もそんな感じで(堤幸彦作品を観たりしてます)。
その流れで今一番楽しんでる作品がPSYCHO-PASSなのですが、今月封切られた劇場版を観に行ったので、雑感を書き留めておきたいと思います。

いやほんと、純粋にすごく面白い映画でした。最初は事前情報何もナシで、すわ「虚淵さんだし叛逆の物語みたいなどんでん返しがあったらどうしよう……」と怯えながらの鑑賞だったんですが、シリーズもの劇場版としてスタンダードな作りではあるものの、アクションあり、メカ・ミリタリー要素あり、メッセージ性あり、ロマンスとまではいかなくとも人間ドラマありで、あとは音響がすごいとか劇判もヤバイとかシラット超カッコイイとか色々あるのですが、とても濃密な作品になっていたと思います。
スタンダード、とは言いましたが、もちろん舞台設定が舞台設定なので一筋縄ではいかず、エンドロール後のラストシーンなんかは非常にアイロニカルでいろいろ考えてしまうものです。これは多分細かい伏線とか要素を追うために複数回鑑賞したほうが面白くなるんじゃないかなー。

☆思想なきヒーローの顛末

サイコパスというシリーズは「近未来のディストピアSF的舞台における刑事モノ」というジャンル上、群像劇的にどの登場人物の視点から物語を概観しても面白い作りにはなっていると思うんですが、中でもこの作品の軸となるのは常守朱狡噛慎也という二人の主人公になると思います。
「シビュラシステム」という人間の意思決定を代行しうるシステムが社会の根幹にある国で、「自分にしかできないこと」を求めて公安局刑事課監視官という職を選び、壮絶な事件と相対する中で「システムに頼らず、自分の意志で未来を選択する」ことを見出す常守と、かつて監視官でありながら部下を殺害した凶悪犯を追ううちに執行官に堕ち自らも復讐者として殺人という境界を踏み越えることになった狡噛。
「犯罪係数」という、人間が潜在的に犯罪を起こしうる可能性を数値化したものが明示される技術を背景に、この二人のそれぞれの「正義」が問われたのがテレビアニメ版だと思います。

今回、劇場版において、更にこの二人のスタンスの違いがくっきりと浮かび上がり、その対比が非常に面白かったです。
パンフレットの虚淵玄深見真の対談において、狡噛は

「そんなに広い視野を持っている人ではなくて、流れ着いたあの場所で、行きずりの悪を見逃せないので戦っているだけという。生まれついての猟犬なんでしょう」「悪人が出てきたらむしろ喜ぶ、正義と暴力のワーカホリックですね」

と説明されています。自分はアニメ一期を観て、狡噛のキャラクターを捉えかねていた部分があったのですが、この説明や劇場版本編を観てすごく腑に落ちました。
常守の視点は社会の全体を、そこに属する人々の一人一人を捉えているのに対し、狡噛の視点は自分のまわりの物事しか捉えられていない。一期の狡噛には槙島聖護という目標があったからこそ芯の通った人間に見えたものの、彼は本質的には根幹となる思想や信念を持たず、ただ目の前の物事に反応して動いているだけだったんだなあ、と判って、ようやく合点が行きました。

劇場版においても、狡噛の「正義と暴力のワーカホリック」さは如何なく発揮されています。
日本から逃亡後、一度は安息の地を探していたものの、シビュラの恩恵によって鎖国体制を敷き国外の世界的な紛争状態から逃れることが出来た日本の外に平和な地はなく、結局は舞台となるシーアンに辿り着いて日本製ドローンへの対策を教え込むため反政府ゲリラの軍事顧問を務めることになった狡噛ですが、彼は無自覚に周りの人間を惹きつけ、半ば崇拝されるようなかたちでゲリラ間の精神的支柱となっています(狡噛と常守がゲリラのベースキャンプに戻ってくる場面、まるで宗教の指導者のように崇められる狡噛の姿が見られ不気味でよかった)。狡噛自身には人を動かす意志はなくとも、周りに集まってくる人間に答えて行動しているうちに、彼は指導者のようなポジションについてしまうことになりました。
最初に劇場版についての情報を見たとき、「槙島を殺害したとはいえ自身の正義に忠実に行動していた狡噛が、どれだけ体制側に理がなくとも安易にテロリストに加担して血を流させるような真似をするだろうか?」という疑問を抱いたことをよく覚えています(最悪これ別人やクローンネタなのでは?とかも考えてました)。
実際に劇中でもそのあたりを常守にツッコまれており、それから意図せず人を惹きつける狡噛のカリスマ性の話になり、槙島と同等の素質を兼ね備えてはいるが狡噛は槙島と違って意図して人を思い通りに動かそうとはしていない、という常守の持論に、狡噛は「ヤツをそんな風に認識していたなら、手こずるわけだ」という意味の返答をします。
狡噛としては槙島も意図して人を扇動するようなやり口ではない、という認識であり(槙島は人を炊きつけて犯罪をさせていましたが、自分の手足として動かしていたわけではなく、あくまで他人の行動を見て楽しむ傍観者だったからでしょうか)、計らずとも自分と仇敵の類似性を認める結果になっています。思想なき狡噛という男の空虚が、犯罪者の思考を追ううちにそれによって埋められていくという皮肉……。
そもそも、狡噛の思想のなさ・視野の狭さも、天性のものともとれますが、もしかしたらシステムによって選択を代行された社会の歪みそのものなのかもしれません。だとしたら、そんな狡噛がシステムの支配下から疎外されたのは本当に救われない話です。

☆ミクロの正義とマクロの正義

狡噛の視点はミクロの視点です。身の回りのことしか見えず、目前の善悪に反応して行動するしかできない。だからこそ、マクロの視点で社会の最善を計算し一定の「犠牲」を生むようなシビュラシステム下の社会では生きることができない。
また、そうした画一的な思考に囚われることなく、自分のしたいように行動するその姿は、抑圧された人々には非常に魅力的に見えることでしょう。彼はマクロの視座から残酷な天秤の測り手となることもなく、目の前の人々を助けるために無償で動くことでしょうから、そりゃ内戦に苦しむ民の精神的な支えにもなるってもんです。厄介なのは本人に自覚のないことですけど……

そして、そんな狡噛を刑事の先輩として尊敬しつつも道を違えることになった常守。彼女は狡噛のようなミクロの視点を失うことなく、マクロの視点をも獲得しています。
シーアンの現状に憤りつつも、シビュラ相手に対等に立ち回ることができるのは、きっと彼女だけでしょう。終盤、狡噛の許に宜野座を向かわせて自らはハン議長の許へと向かう旨を告げる常守のシーンは象徴的です。
もちろん宜野座と狡噛の友情を図っての意図もありますし、宜野座なら狡噛を無碍に扱うことはないだろうという推測あっての指示でしょうが、彼女が相対するべきは狡噛という個人ではなく、シビュラというシステムそのもの。拘束されていた狡噛と常守を一係が救出に訪れてからの二人が別れるシーンにも共通しますが、異なる視野を持つこの二人が戦うべき戦場は異なるのです。
この「レンジの異なる二つの正義」の交わりと別離を、テレビ版にも増して鮮明に描いた劇場版は、自分にとってなかった思考を齎してくれたように思います。異なる正義がぶつかり合う、という物語は沢山ありますが、こういうカラーの描き分け方はなるほどと思わされました。自分はどちらかというと視野が狭くて目の前の物事に飛びつく狡噛タイプなので、常守みたいな生き方がすごく羨ましく見えますね。

☆「怖い」主人公

そういった狡噛の立場を踏まえても、今作の狡噛は「怖い」人物だったような気がします。
テレビ版からして、彼は犯罪者を追ううちにそれに同化していく、「怪物と戦う者は、自分も怪物にならないよう注意せよ。深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込む」を地で行く人物だったのですが、劇場版ではより大きなうねりの中にいるせいでしょうか。
今作は『地獄の黙示録』モチーフだそうで(そういえばデズモンドの台詞のワーグナー云々ってワルキューレの騎行か!)、言われてみれば体制側から切り離された人間がカンボジアぽい場所で人間を率いてドンパチやってるぞ! という感じなのですが、カーツ大佐ほどの狂気やラスボス感はなくとも、狡噛の「無自覚に人間を牽引してしまう能力・生き方」っていうのは、一歩間違えれば槙島になりかねないという意味でも恐ろしいものだと思います。そういえばこの人、一期で『闇の奥』読んでたな……。
憲兵隊の現地民への不正を赦せず行動を起こしたり、常守や宜野座などかつての仲間を案じたりと、人間らしい感情の動きは見せていたはずなのですが、やっぱりミクロの視点しか持ち合わせない人間がゆえの危うさが前面に出されていたように感じました。
だってこの人崇められてるんですよ!(笑)あれ以上放っておくと余計死人が出る、という使命感もあったけど、大体の部分は私怨で占められた理由で法を破り人を殺して逃亡した男ですよ! そんな人間が……。
そういう人間だから、なのかもしれませんけど、本人も自分のスキルに怯えているわけで、ちょっとこの辺の後味の悪さは一期から観てきた人間にはつらかったです。今後、周りに集まってくる人間を救おうとした結果、多くの人々を率いて社会の敵となって常守たちの前に帰ってくる、とかそういう展開がありそうで怖いなぁ。メタルギアにおけるビッグボスみたいな。
半ば臨死状態で槙島の幻影を視るシーンには本当にゾッとしました。思想なき男が仇敵の姿を借りた己の無意識下の疑問に問い殺される場面ですね、アレは……。でも槙島が登場してパイプオルガンのBGMが流れるとなんとなく笑っちゃうんですけど……。

常守朱の選択

で、狡噛の話ばっかりしてしまったわけですけれども、自分が心惹かれるのはむしろ彼と対比されている「レンジの広い正義」の持ち主である常守のほうです。
一期からして友人を手にかけた槙島を殺しそびれてからの彼女の株が上がりっぱなしだったんですけど、やっぱりこういう「不完全な法と眼前の悪を秤にかけた結果として、法を逸脱せず己の殺意を収めて終わる」タイプのキャラクターがものすごく魅力的に見えるんですよね。有栖川有栖の火村シリーズとかもそういう要素ありますね。
こういう類型の登場人物が殺意を収めて終わる理由っていうのは色々あるとは思いますが、彼女の場合は法秩序が社会を、そこに属する人間を守っていることを知っているから、完全でないことを知りながらも法に従ってしか槙島は裁けないと理解していた、ということでしょう。
しかもそこで留まることなく、「法が人を守るんじゃない。人が法を守るんです」「社会が必ず正しいわけじゃない、だからこそ私たちは正しく生きなければならない」と、民主主義における社会の構成員の意思表示の重要性の話になってくるんですよね。実際、彼女はシビュラにかけあって取引のできる立場にまで上りつめたわけで、二期では間接的ながらその制度を改編するまでの仕事をやっているわけです。
こういう「現状を肯定せず、かといって壊すわけでもなく、よりよい未来を模索し行動していく」キャラクターは珍しくていいな、と思います。自分が知っている虚淵作品(『沙耶の唄』『Fate/Zero』『まどか☆マギカ』辺り)を考えると、こういうミクロとマクロを折衷しつつ生きていくキャラクターってあんまりいなかったと思うので、稀有な存在なのかな、と。

この作品の憎いところは、一応理想的なポジションとして描かれる常守にもバンバン反証をぶつけていくところだと思います。
まず一期の狡噛という理屈の外側の復讐者を止めることはできませんでしたし、二期も彼女にとって試練の連続でした。特に霜月の存在は意図的に常守と対比させるためにぶつけられてきたもので、同じく友人を殺された過去を持ちながらも常守とは正反対に臆病なシビュラの賛同者として育っていく様が見事に視聴者の期待を裏切り、ある種痛快ですらありました。でも当たり前なんですよねぇ。みんながみんな常守になれると信じていた我々のほうが固定観念で人を判断していたわけですから。
常守の信念はある種マッチョイズム的な側面があるもので、彼女のような考えを持てる強さや社会的地位がない人間にとっては刃にもなるものでしょう。そこのところの「一筋縄ではいきませんよ」という意味としての霜月の配置は本当に巧かった。あの子、劇場版では有能で容赦ない奴隷になっていて感動しました(笑)。「空気読めってことですよ」って言葉は本当にシビュラ下の社会を端的に表してますし、現実にもリンクしますよね。
そしてこの劇場版では、シビュラの神託によって幸せな道を歩む友人からはじまり、伊藤計劃作品もかくやという紛争にまみれ荒廃した世界で、日本だけが鎖国しシビュラに頼り治安維持を行うことで一応の平穏を得ているという、よりシビアな現実が突きつけられました。ゲリラ掃討戦の描写とか本当にきっつい(描写がグロいとかではなく、常守の立場に立ったとき日本の現状を肯定しなきゃいけなくなる作りが)(でもメカはかっこよかった)。
暫定のシステムでもないよりはまし、というのはシンプルな理屈ですが、技術には恩恵と欠点の両者が存在し、全ての人間を救う最適解なんてものは存在しないのだ、とはっきりわからされた感じが、もう……。
シーアンに民意による選挙を導入した、という点で、たとえ人民がシビュラを選んだとしても常守のしたことは無駄ではなかったように思いますが(そして彼女本人もある程度想定はしていたのではないでしょうか)、それでも最前線に飛び込んで生活している狡噛にとっては何も変わらない、というのがラストシーンのアレですかね。銃を構える少年を見て驚いた表情で煙草を取り落とし、苦笑を漏らして終わる。
エンドロールの後の短いシーンですが、これがあるのとないのとでは作品ががらりと変わってきますね。

☆その他もろもろ

他にもいろいろ書こうと思えば書けることがいろいろある、様々な方面から切って楽しい作品になっているので、個人的には予想していたような完結編ではなかったものの非常に楽しい作品となりました。
あんまり真面目じゃない方面の話としては、宜野座の成長が嬉しかったです。こういう「主人公になれない」「選ばれない」側の人間がどう足掻いて運命に対処していくかは、それだけで一つの作品に出来るくらいだし、ものすごく好きな題材なのですが、アニメ一期二期を経て一つの決着と解答がもたらされた劇場版の彼は本当に魅力的ですね。激しいアクションや強襲型ドミネーターでのスナイプもクールだったし、なにより狡噛に引け目や劣等感を感じていたであろう彼が対等な立場として並びたてる人間になったのが感無量です。
狡噛・宜野座・常守の三角構造は物語の幅を広げるいい配置だなあと思います。
あとは生々しさでしょうか。システムに支配された仮初の楽園である日本と、終わりなき内紛から脱け出せない諸外国。テレビアニメ版でシビュラシステムに疑問を持った視聴者に現実を突きつけ、「どうにもならない」世界の様相をこれでもかと見せつける中盤のゲリラ掃討戦シーンは非常に力が入っていました。非現実的に見えて現実と地続きの場所にあるように見える世界――よく考えれば、個人の状態を数値化する試みも、犯罪を病理ととらえる考え方も、現実に存在するものなんですよね。伊藤計劃の『ハーモニー』における健康を第一の価値と捉える高度福祉社会の、精神医療バージョンみたいなものかと思います。
まだいろいろと考えたことはあるんですが、観た人の心に波紋を広げる感じがサイコパスという作品のいいところなんでしょうね。エンタメとしても楽しめる小ネタが沢山でしたし、どこを切っても面白い作品でした。ぜひこのプロジェクトが続いて続編が制作されることを祈ります。

三期はミステリ作家呼んで刑事モノ回帰もやってくれないかなー(笑)

近況

・ミステリーナイト2014に行って参りました。
今回はサークル同期の友人たちと参加したので「EMCみたい!」と一人はしゃいでました。入賞はもちろん無理でしたが、犯人とトリックは当てられたので昨年からはかなりの成長かな? みんなでわいわい推理するのは本当に面白かったです。
あと、ディナーが本当に美味しかった! 昨年は予約しなかったので初めてだったのですが、ホテルメトロポリタン池袋のご飯は本当においしいです。朝食バイキングも。
来年も出来れば参加したいし、頑張って入賞目指したいですね!

・友人の誘いで劇団四季の『ジーザス・クライスト=スーパースター』を観てきました。全く知らない作品だったんですがすごく面白かったです。ロックミュージカルってこういう感じなんですね、すごく新鮮で楽しめました。変拍子バリバリ出てくるので演ってる側は大変だろうなあ…… ブロードウェイ版と映画版も観てみたい。
今月は舞台っていいなあと思うことが多いですね。今までは演劇とかあまり観ない人だったんですけど、もうちょっと積極的に観てみようかなーと思ってます。

・『すべてがFになる』ドラマ化……!?
武井咲&綾野剛、「すべてがFになる」W主演で難事件解決! (2/3ページ) - 芸能社会 - SANSPO.COM(サンスポ)
うおおおおおおお、マジですか……
このシリーズって実写化の話自体は度々上がってたと思うんですけど、毎回頓挫してたんですよね。とうとう実現まで漕ぎ着けたんだなあ……
犀川先生は長谷川博己だろお! とか、フジで火9って嫌な予感しかしねぇとか、湯川犀川ときたら次は火村だろテレ朝さんお願いしますとか、いろいろ複雑な思いはありますが、とりあえず続報を待ちたいですね……。
それにしても、高木彬光泡坂妻夫がドラマ化されたり、島田荘司もドラマになるとかなんとかな話があるし、ミステリ映像化ブームなんでしょうか? 海外ではシャーロックも流行ってるしなあ。有栖川もそろそろかなあ……

近況記録

卒業論文の追い込みの時期に、ふと息抜きにと思って『パラダイス・クローズド』を買ってから一気に読んでしまい、それ以降汀こるもの作品にハマっています。タナトスシリーズは現在『赤の女王の名の下に』まで、それと『完全犯罪研究部』を読みました。
メフィスト賞らしい作家というか、サブカルネタやネットスラングアクアリウム薀蓄を存分に塗しつつ、どこかひねた目線で語られる独自の哲学がツボです。ひねているんだけど、この手の作品には珍しく割と根っこのところでは真っ直ぐな思想を持つ作家だな、という印象。読書メーターでも勢いに任せて書きましたが、『フォークの先、希望の後』の「生き汚くても、恥を晒して罪を重ねてもいいから、とにかく生きろ」というメッセージの強さは本当に心動きました。本を指して「泣ける」という評はあまりよくないとは思うのですが、この作品に関しては本当にこみ上げるものがあった。これは10代に響くメッセージだと思う。中学だか高校だか忘れましたが、自分にも思春期らしく精神的に滅入っている時期がありまして、そのときに西尾維新の『ヒトクイマジカル』を読んで「とにかく生きろ」というメッセージにいたく感動して泣いてしまったことがあって、それを思い起こさせました。うーん、まだまだ感性が10代から成長していないのか……?

有栖川有栖原作の観客参加型ミステリーイベント『動物園の暗号』に参加してきました。同じく有栖川ファンの人たちと一緒にどんなもんかな、という感じで。
原作である『ロシア紅茶の謎』収録の『動物園の暗号』は一応既読だったのですが、全く読み返さずものすごい軽い気持ちで参加。こういう謎解きイベントは、昨年のミステリーナイトで初めて体験し(そして思いっきり犯人を外し)面白さを知った初心者でしたが、今作も非常に楽しめました。『動物園の暗号』をご存じの方なら判ると思いますが、わりと「アレをどうやって舞台化&謎解きゲーム化するの?」という部分がある作品だと思います。が、舞台に関してはそこをうまく演出の妙でアレンジしていたように思います。原作既読者でも楽しめる舞台でした。
基本的に関西方面で活動されている劇団のようなんですが、今回のように東京でも公演してほしいなあと思います。過去には『ブラジル蝶の謎』『スイス時計の謎』といった自分の好きな作品も公演されていたらしく、そっちも東京で是非観てみたいですね。こういうイベントはどのような方が参加されているのかまだよく判らないんですが、今回に関しては関西から遠征してきている謎解きイベント好きの方がいらしたりしていて、おおこういうイベント自体が好きな層が厚いんだな!というところに驚いたり。そういえばミステリーナイトも常連強しという感じでしたね……。
原作、というか、火村シリーズの(有栖川作品全体の?)特徴であるインテリジェントでウェットな感じは抑え目で、舞台映えするようなコミカルでテンポの良い劇にアレンジされていますが、それが許容できる有栖川ファンの方なら本当に観に行って損はないと思われます。劇団の方々の愛を感じる舞台です。レギュラーキャラクターのキャスティングのイメージもぴったりです(特に火村の謎解きの場面の畳みかけるような喋りは本当にイメージ通りの名探偵で感動した!)。次回公演の暁にはぜひ。

・帰省の際に叔父(自分がミステリ好きになったのはこの人の蔵書が原因)からいろいろ本を頂く。西澤保彦等々。読みたかった『化学探偵Mrキュリー』があるぞ、と思ったらいきなり2巻じゃねえか! 読みます……

・『野性時代』掲載の有栖川有栖の短編『ショーウインドウを砕く』読みました。久々の倒叙モノですかね。犯人視点ならではの緊迫感あるお話でした。相手の虚を突いて戦略勝ちする系の話もこのシリーズの設定ならではで結構好きです(モロッコ水晶とかもその部類に入る? あれは評価が分かれていますが、個人的には「嘘つき村と正直村」的な話だと思っています)。最後の場面は本当にゾッとする終わり方で、らしくて大好きな後味でした。
「あなたが欲しいものは何ですか」に対する、「何もいらない」を超越した非人間的な回答とはなんなんだろうなあ、と考えて、「何も欲しくないし、むしろ全部消えてしまえ」じゃないのかなあ、というところに行き着いて、さらに背筋が凍る。
完全な性格破綻者でもなく、アンチ「名探偵」でもなく、あくまで元来からの探偵役のフォーマットに則って、倫理観や秩序規範を破ることなく現実味のある人物造形をしながらも、「犯人よりも恐ろしい歪みを抱える名探偵」をやってのけてしまうのがこのシリーズの怖いところ。リアリティがあるからこそ……。

・というわけで、今年のミステリーナイトも参加してきます。去年は惨憺たる結果だったので、今年は犯人くらいは当てたいなあと思うのですが……どうなることやら。

幻想を俯瞰して飛べ――有栖川有栖『46番目の密室』

新装版 46番目の密室 (講談社文庫)

新装版 46番目の密室 (講談社文庫)

ここに、一つの幻想がある。
それは箱に似ている。密閉された箱の中身は、誰も知る由がない。けれどその箱に惹かれるものは後を絶たず、ゆえに多くの人々がその箱の中身を知ろうと画策してきた。
あるものは箱を持ち上げ、動かしてみた。あるものは箱に光を当て、内容物を透かそうとしてみた。あるものは箱を壊そうと、鉄槌を振り上げた。あるものはもはや箱などいらぬと、それを蹴り飛ばしてみせた。
けれど、箱の中身はてんで判らないままだ。いや、判らない、というより、判りはするが答えは出ない、というべきだろう。なぜなら、百人が箱に触れれば百人が違う中身を想定するのだから。
結局、あまねく全ての人間が納得する答えは出ないままだ。箱を開けてみせたら、一体どんな光景が待ち構えているのだろう。そこには楽園が広がっているのか、あるいはパンドラの箱が如く災厄と絶望が零れてくるのか。答えが出るときは、恐らく来ないだろう。私たちは、箱の中身について考えることは出来ても、直接それに触れることはできないのだ。
その幻想の名を、<本格推理小説>と呼ぶ。



『46番目の密室』は、本格推理小説という幻想にまつわる物語である。
舞台となるのは、「密室の巨匠」と称される大物推理作家・真壁聖一の別邸、星火荘。真壁を囲む推理作家と編集者たちの集いにおいて、彼は密室ものからの「転向」を表明して周囲を驚嘆させる。その後、密室の絶筆を宣言した真壁は、完全な密室である地下書庫において殺害されているのが発見される――

本作には、設定にも、そして本文にも、推理小説に関連するワードが頻見される。語り手である有栖川有栖(作者と同名の登場人物、というのは、もちろんエラリー・クイーンの影響下にある設定だ)が推理作家である、という設定上の問題を差し引いても、実に自己言及的な造りの小説だ。
冒頭、真壁が密室ものを書かないと宣言する場面において、彼は自らの限界――密室に、そして本格推理小説に対する――に行き着いたことを打ち明け、そして今後の展望を語る。純文学やSFへのジャンル転向でもなく、文学性の追求でもなく、アンチ・ミステリのようなジャンルに対する批評でもない。彼の行き着くべき場所は、『天上の推理小説』と称される。


「(略)何であれ物事をむやみにカテゴライズすることは感心しないが、推理小説はそれ以外の小説と区別するしかないという性質を内包していると思う。推理小説はポオの『モルグ街の殺人』をもって嚆矢とするということが定説になっているが、考えてみるとこれはとても奇妙なことだ。何故原初の一作を特定する定説などがあるのか? それは推理小説が文学の世界の特異点である証拠ではないのか? 光さえもが直進を拒まれる『空間の歪み』を科学者が宇宙に発見したように、おそらくは『推理小説』も発見された特異点なのだ」
「その特異点では何が起きるんでしょうか?」
不意の質問者は火村だった。そのことが意外だったのか、真壁は斜め前の彼の顔を見た。そして言葉を幾分丁寧にして、こう回答をした。
「謎と分析、あるいは神秘と現実、つまり感性と悟性が永久運動を行なう。互いに相手に圧力を加え合いながら、苦しげに、しかし美しい運動を続けるんです。幾何学のファンタジー、昏い夢がこの世の外へ向けて輻のような光を放つんです」

「おそらく私は、推理小説とはかつて書かれたことのない物語である、と極論したいのでしょう。古今東西の名作と呼ばれる作品名のリストを見る時、私はいつしかかぶりを振っています。そこに並んでいるのは、私を含めた数知れない人間を夢中にさせてきたきら星のような作品群には違いないのですが、私は安らかな満面の笑みを浮かべようとして、それを止めてしまうのです、――推理小説はどこか他所、彼方にあるのではないか、と考えて」
「ではそのリストに並んでいるのは何なんです? 推理小説以前のものなんですか?」
火村が追及した。唐突に始まった推理小説の異端審問に彼がこうまで興味深そうに参入していくとは、私も意外な気がした。
「不遜な言い方かもしれませんが、それらは『地上の推理小説』とでも言うべきものではないかと思います。それはそれで愉悦に満ちた楽園です。しかし……」
巨匠は言い淀んだ。火村は口元のメロンの汁をジャケットの袖で拭いながら、それに代わって言った。
「まだ見ぬ『天上の推理小説』があるはずだ、とお考えなわけだ」


この作品の基盤となるのは、『天上の推理小説』なる美しい幻想だ。推理作家の渇望する、未だ見ぬ境地。密室殺人の終着地。本格推理小説のハイエンド・モデル。
しかし、その内容はついぞ語られない。『天上』を垣間見た真壁聖一が発するはずだった作品は――46番目の密室は、焼かれて灰になり、もはや現存しない(これに纏わるクライマックスの場面のやり取りが非常に素晴らしいのだが、ネタバレになってしまうので、未読の方には実際に目を通してほしい。本当に)。しかし、それも道理のことだ。『天上の推理小説』は、あくまで推理作家たちの夢見る幻想に過ぎず、具体的に形を持って生まれくるものではないのだから。
<本格推理小説>とは何か。その定義には諸説あり、しばしばどこに境界線を引くかの議論も発生する。そもそもが「本格」と「変格」を選り分けるための言葉であり、「それ以外」があるからこそ意味が形成される概念といっていいだろう。だからこそ、ボーダーラインは非常に曖昧であり、たびたび個々の価値観の競い合いに陥ってしまうのかもしれない。しかしこの小説を読むと、それ以前の問題として、根本的に<本格推理小説>とはそれを好む人々の抱く様々な夢を仮託された幻想なんじゃないか、とすら思う。価値観がある程度集合して共同幻想化したとしても、本質的には実体のない幻想。一人一人の心のうちに宿る、言語化しがたい淡い光。それらをなんとか共通項で括り、共同幻想として提示したものが、「本格推理小説」というタームに過ぎないのではないだろうか。

「幻想」は、有栖川作品を読み解く上では重要な概念であると思う。そもそも、論理で全てが解明される本格推理小説の世界は、本質的に幻想である。現実には論理的整合性の欠片もない不条理があり、確定できない人間の心がある。それらに無理やり物語を見出そうとするなら、それはもはや宗教だ。
有栖川作品は、本格推理小説の幻想性を理解している。理解したうえで、それを揶揄したり、徒に否定したりはしない。幻想は幻想であるからこそ美しい。決して手の届かない星の光を、届かずとも追いかける。それが、この作家のスタンスだと思う。

『46番目の密室』は、『天上の推理小説』という決して手の届かない星を追いかける推理作家たちの物語だ。真壁だけではなく、おそらく推理作家という人間なら、その美しき幻想を追わずにはいられないだろう。かつて自分が推理小説に触れて覚えた感動を、どうかもう一度この手の中に再現したいと、創作者ならそう願わずにはいられまい。けれど、理想というものはいつも届かない場所にいる。
「謎と分析、あるいは神秘と現実、つまり感性と悟性が永久運動を行なう」。つまりは幻想=不条理と現実=論理の相互性こそが、本格推理小説を取り巻く環境である。時に板挟みになりながらも、それらを両輪として走っていくことでしか『天上の推理小説』は目指せない、と作者は理解している。
先に引用したシーンを見返せば、『天上の推理小説』という幻想を目指し飛ぼうとしている真壁の言葉に、どの推理作家や編集者よりも、探偵役の火村が的確な質問を返している。これもまた興味深い状況ではないか。そもそも、推理作家や編集者=「幻想を扱う側の人間」たちの集まりに、友人である有栖川の同行者として、「色物」でありイレギュラーである犯罪学者の火村=「探偵役という幻想の内部の人間」が参入していることも象徴的だ。探偵役としての火村のキャラクター造形自体に、「幻想」という概念が非常に深くかかわってきていることも着目しておきたい(これはいつか纏めて論じたい部分だ)。

有栖川有栖という作家は、本格推理小説に対し真っ向から向き合い、目をそらすことなくカチ合っている稀有な作家であると思う。ロジックに重きを置く作風自体もさることながら、物語部分にも「推理小説」である必然性が十分に含まれている作家である、といえるのではないだろうか。それは『天上の推理小説』ではないのかもしれない。しかし、だからこそ、真摯に幻想を追い続ける数多の作品たちは、これほどまでに人を惹きつけてやまないのではないか。『46番目の密室』というある種自己言及的なこの小説は、その端的な表明であるように思う。

それでもやはり、いつか幻想を俯瞰しながら飛べるようになったとき、『天上の推理小説』を執筆してくれることを祈りたくなるのは、読者の性というものだろうか。



個人的に、本作『46番目の密室』を皮切りとする火村英生シリーズ(作家アリスシリーズ)の初期作品の隠れたテーマは「理解という幻想」ではないか、と思っている。読書メーターでも少し書いたのだけれど、今作に関しては、共通認識=相互理解の不可能性、ということになるのだろうか。そういえば、最後に火村が犯人に対して「○○を信じてすべてを打ち明けていればよかった」といった趣旨の言及をしていたが、やっぱりそういうことなんだろうか、と思ったりした。相手を信じるということは、自分を理解してもらえると確信することだ。もちろん、言語という媒介を用いてしかコミュニケーションが出来ない時点で、100%の理解というものは実質不可能である。それでも――というのが、最後のくだりの意味なのかもしれない。