幻想俯瞰飛行

生存記録を兼ねて長文を書くためのブログ。文章読んだり書いたりします。 

ASIAN KUNG-FU GENERATION「プラネットフォークス」/ 「Gimme Hope」その続きは君が書け

アジカンを愛聴している割に、三月末に出たアルバム「プラネットフォークス」のことは書けなかった。「解放区」などの思い入れ深い曲も多いし、何よりアルバム発売までの経緯や、アルバムに込められた生々しい感情に対して、相対する言葉を持たなかったからだ。
今になって、このアルバムを評するとある文章を目にした。ゴッチは真面目すぎる、考えすぎる、という内容のものだった(個人を批判する意図はないし、相手のかたに迷惑だと思うので詮索はしないでね!!!)。率直に言って、それにめちゃくちゃムカついた。そして、語る気になった。

後藤正文に、アジカンに重いものを背負わせてきたのは、我々であり、あなたであり、私である。



アルバムを一聴し、歌詞カードを開くまでもなく、「Gimme Hope」の言葉に打ちのめされたのをよく覚えている。愚直に正直に社会と対峙する、アジカンというバンドに射す光と影。表現者の直面する業という意味では、大ヒットを記録した「ソルファ」の次のアルバム「ファンクラブ」、とりわけその一曲目の「暗号のワルツ」を彷彿とさせるけれど、「多くの人の衆目に晒されるが故の表現者の苦悩」という括りでは似ていても、その結論は大きく異なっている。
世に放たれ誰かに向けて発信された、音楽と歌詞というコミュニケーションの手法でありながら、「君に伝うかな 君に伝うわけはないよな」という絶望で終わる「暗号のワルツ」。
神輿に担いで梯子を外す、そんな世界からの”扱われ”への怒りと諦観に満ちた言葉の先に「抜け殻になった僕たちの首に下がった値札も 奪い取ってよ 何もかも あの歌も君が唄ってよ/この続きを唄い繋いでよ」と締める「Gimme Hope」。
これって逆だ。現在はバンド史として客観的に語られるように、世間からの毀誉褒貶に苦しみ、体調を悪くしてまでステージに立っていた頃の彼らの、希望を模索しながらも「どれだけ伝えようと努力しても伝わらない」という諦観と皮肉のこもった「暗号のワルツ」。聴いている側が怯えそうになるほど鋭く、それでいて美しく、「そんだけ言うなら勝手にしろや」という逆ギレを言葉にしながらも、自棄とも祈りともとれる”君が唄え”の両義性が強く残る「Gimme Hope」。
希望→絶望と、絶望→絶望or希望。

震災後のアルバム「ランドマーク」収録の「それでは、また明日」の一節、「何事もない日々を取り戻せそうか」は、読み方によって意味が180度転回する、とゴッチが日記で言及していた。つまりは、「震災とそれに付随する社会混乱や断絶を乗り越え、また平穏な日々を迎えられるか」or「震災を機に浮き彫りにされた諸問題をうやむやに、何事も”なかった”ことにして仮初の平穏を得るか」ということだと思う。
絶望or希望。
「それでは、また明日」はタイトルの通り祈りの曲だが、ストレートな希望のみで終わらせないところがアジカンだ。現状、十年以上が経っても爪痕は残り、社会はまだ揺れ動いている。希望と絶望の両義的な側面を歌詞に残しているのは鋭い。
たぶん、「Gimme Hope」の”君が唄え”もそうなんじゃないだろうか。ギャーギャー言うならお前がやれやの意味でもあり、いろいろあるけど自分のこととして未来を作っていこうよという励ましでもあり、と私は解釈している。なんならもっと多義的な意味を持つ言葉だと思う。だからこそ、この曲が単なる自棄のように受け止められるのなら、なんか違うな……と思っている。実際どういう意図なのかは作詞者以外誰も知らんけど。

「ファンクラブ」という重苦しいアルバムは、「タイトロープ」の「見失った此処が始まりだよね」という、”喪失・絶望は本質的に獲得・希望と同義”という、アジカンの初期から現在まで一貫したテーマにたどり着くところで終わる。このテーマをわかりやすく書いたのが「ホームタウン」の「ボーイズ&ガールズ」であり、またGotchソロ1stでも延長線の言葉が語られていたりする。
「それでは、また明日」や「Gimme Hope」もまた、この両義性に似たギミックを仕込まれた歌詞である。”君が唄え”が自棄でも祈りでも、もはや同じなのかもしれない。

話題は戻る。
アジカンは真面目なバンドだ、それはわかる。誠実すぎる、肩の力を抜いたほうがいい音楽ができる、そうかもしれない。
だが、彼らが真面目なのは”君が唄わない”からに他ならない。例のフジロックにまつわる論争だってそうだ。真面目に言及する人間を矢面に立たせ、本質から目を逸らし、社会問題をエンタメとして消費するだけ消費して終わったら忘れる、そんな最悪さの一端を”君が唄わない”ことそのものが担っている。(ところでなんで主催でもなんでもない人が矢面に立たされてたんですかね…
この音楽を受け取った以上、他人事なんて言えやしない。
だからこそ私は打ちのめされた。どこかで自分のことだと思っていなかった心の間隙にその言葉を撃ち込まれて、現実に引き戻された。
前述の言及にムカついたのは、多分、ここまで我がこととして受け止めるスタンスを強く押し出している作品に対して、それを理解しているはずなのにあまりにも第三者的な言葉だったからなんだと思う。作品をどう受け止めるかは個人の勝手ではあるけれど、アジカンに、「プラネットフォークス」に対して「気負いすぎ」と言えるとして、それは彼らの重荷をともに背負う覚悟をもっての言葉であるべきだからだ。

”君が唄え”。
アジカンと関連しない物事でも、自分がどうあるべきか、自分が何を選ぶか、そういうことを考えているさなかだったので、そのテーマが刺さったし、内省するところも多かったのかもしれない。もちろん、刺さらない人もいるだろうし、それに対して説教したい気持ちもない。
ただ、これだけはずっと思っている。

後藤正文に、アジカンに重いものを背負わせてきたのは、我々であり、あなたであり、私である。

アジカンを聴き、熱狂し、ある意味で消費し、外野で騒ぐだけ騒いで勝手に去る。私とて、いくら言葉を弄しても、結局はそんな大衆の一人である。たぶん、そこに「Gimme Hope」が響いたんだろう。
無責任ではありたくない。だから私も続きを書きます。

あとこのアルバムってBe Alrightで終わってるんだけどこれが希望でなくてなんなんだ……って思います。近年のアジカンの「音楽と自由」の模索の結実が「解放区」だとすれば、時代性をもってそれとアルバムを結びつけるのがこれじゃないですか!?!?!?!?!?!?!?!??!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!??!?!?!?!!??!早くライブ会場でビオラーイしたすぎる!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!うわーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

今長い文章書いてるので、それ終わったらアルバム評もっとちゃんと書きます(完)