幻想俯瞰飛行

生存記録を兼ねて長文を書くためのブログ。文章読んだり書いたりします。 

ASIAN KUNG-FU GENERATION Tour 2016-2017「20th Anniversary Live」 at 日本武道館(1/10)、あるアジカンファンの記録

(ライブレポートというより、中高時代アジカンが好きで好きで仕方なくて愛が重すぎたクソめんどくさい20代のどうしようもない思い出話なので、そのへん覚悟して読んでもらえると有難いです)



 冷え込んだ土日よりは少し暖かくなったとはいえ、一月の寒さが沁みる十日の夕方。九段下駅を降り、日本武道館へと向かう。物販の時間を考えるともう少し早く辿り着きたかったが、平日なので仕方がない。
 武道館の前を通ったことは幾度かあるが、武道館に入るのは初めてだ。ライブの聖地と呼ばれる場所。特別な思い入れがあるわけではないものの、ライブに向かうこと自体がかなり久々であるので、いやが上にも期待と緊張を覚えてしまう。
 北の丸公園に入ると、同じ目的の人々で溢れていた。ここにきてようやく武道館へ赴いた実感が強く湧いてくる。そもそもがなんとなくの軽い気持ちで取ってしまったチケットで、年明けから前日まで体調を崩していたこともあり、来られるかどうかというところから不確定だったライブだけれど、やっぱりライブ当日というのはいいものだ、と懐かしい気持ちにかられた。

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 武道館を前にしたところで、自分がアジアン・カンフー・ジェネレーションのライブに足繁く通っていた頃、中高生時代のことを思い出していた。
 アジカンを好きになった正確な経緯は覚えていないが、時期としては『ソルファ』、というか『リライト』の頃だと思う。FMラジオを愛好していた中学生時代の自分は、その前からちょくちょく『君という花』なんかを耳にしていたように思うが、正確にバンド名を認識したのはアニメの主題歌としての『リライト』だったはずだ。時期にして2004年、つまり13年前のことになる。
 その後、おそらく『ソルファ』を聴きこのバンドに関心を持ったであろう自分は、2005年頃に本格的にバンドを追い始める。アニメ主題歌から入った、と言った通り、自分にはもともとロックを聴く趣味などもちろんなく、(当ブログをご覧の方には察しがついているかもしれないけれど)教室の片隅で推理小説を読んでいるタイプの人種だった。そんな自分にとって「ロックバンドにハマる」という経験は何より新しかったし、刺激的だった。日記にある当時の自分の言を借りれば、「世界が変わった」出会いだった。
 CDを集め、音楽雑誌を買い、ラジオ番組を毎週欠かさず聴いてMDに録音し、公式サイトをくまなくチェックし(当時はもちろんツイッターがまだ存在しない頃だった)、そしてライブに行く(初めて行ったのは記録を見る限り2006年のNANO-MUGENだと思う)。全く知らない世界を知り、そして音楽の楽しさを改めて覚えて、それこそ熱病に浮かされたように熱狂することになった。
 公式サイトに掲載された後藤正文の日記をくまなく読み、日記やラジオ番組で紹介されるバンドの音源を一生懸命追いかけた。アジカンだけでなく音楽自体のファンであってほしい――という彼らの願いに応えるように古今東西のロックを聴き漁り、学校では友人と音楽の話をしてCDを貸し借りし、放課後はレコード屋やツタヤに入りびたって、それなりに楽しい日々を送ったのだと思う。はてなダイアリーでブログを始めたのも2006年のことで、現在は閉じているものの、もしかしたら覚えている方もいるかもしれない(『君という花』のPVロケ地訪問記事など書いていました。当時の読者さんが見てたらすごい)。
 ライフスタイルも変わったし、趣味嗜好も変わった。着るものも変われば行く場所も変わり、音楽という趣味を媒介して付き合う友人も増えた。もともと好きなものに影響を受けやすいせいで、言動など後藤正文の真似をしてみたり、少々、いや、かなり「痛い」ファンではあったと思うけれども、それでもかなりの文化的教養の許になったとも思う。
 いまになって思えば、アジカンが自分の人生に及ぼした影響は計り知れないほど大きい。このブログは推理小説の感想を書くために始めたものだけれど、推理小説よりアジカンのほうが自分の人生におけるターニングポイントとして重要かもしれない、とすら思う。

 それだけ入れ込んでいたアジカンではあったが、大学に入学して少しすると、サークルや講義が忙しくなったこともあり、自然と遠のいてしまった。最後にライブに行ったのは2009年のNANO-MUGEN。奇しくもNANOに始まりNANOに終わるライブ趣味だ。
 あれだけ熱を上げていたのにあっけないものだと思うけれども、一因と思える出来事がある。アジカンに憧れていた高校時代の自分は、大学に入ったらアジカンのように軽音楽部に入り、バンドを組みたいと思っていた。というか、組むものなのだと思っていた。当時の自分は10代ならではの万能感にあふれていて(一方で10代ならではの憂鬱にも苛まれていて)、夢見たものはかならず実現すると思っていた。今となっては恥ずかしい妄言だけれども、音楽業界で仕事をしたいとも公言していた。
 ギターを買い練習をはじめ、大学に入り、軽音サークルの新歓コンパにも行ったけれども、とうとうそこに居場所を見つけることはできなかった。いま思えば音楽の話が通じる優しそうな先輩方もいたし、頑張ればなんとかなったのかもしれないな、と思うが、少し嫌な思いをした出来事があったのもあって、新歓コンパの途中で脱け出した。そのとき一緒に抜けてくれた同学年の人がいて、彼と「無理して馴染もうとしても仕方ないよね」とかそんな話をしたような記憶がある。もううろ覚えだけれども(とても感謝しているのだけれど、お礼を言いそびれました)。根が軽音に入るようなタイプではないのだろうな、と今は思う。
 結局軽音サークルに入ることなく、入学時に知り合った友人に誘われた文芸サークルに居つくこととなり、それはそれで自分にとって大正解だったので後悔はしていないけれども、当初の目的とは全く違う道を歩むことになったのだった。

 こうして振り返ってみると、アジカンは自分の人生を大きく輝かせてくれたと同時に、人生に大きな呪いをかけてもいったように思う。もちろんアジカンが悪いわけではなくて、思い込みが激しくすぐ他者の真似をしようとする自分の性分が100%悪いのだが。
 その呪いは「理想的なファン」であろうとする呪いであり、「理想的なファン」であることに「居場所」を求める呪いだった。 「理想的なファン」であろうとすることは、ある種アジカンと同一化しようとすることだったのだと思う。だから自分はアジカンと同じように大学でバンドを組もうと思ったし、必死こいて後藤正文と自分の考え方や感性の共通項を探し求めていたのだと思う。
 けれど、自分は自分でありアジカンアジカンだ。似通った感性はあったとしても最終的に全てが交わるわけではないし、そもそも楽しむためのファン活動において過度に理想の型に自分を当てはめようとするのは息苦しい。
 自分がアジカンから離れたのは、なんてことはない、過剰に居場所を求める行為に自分自身で疲れてしまっただけなのだ。背伸びをして洋楽ロックを聴いて、ライブの際にはマナーを過剰に気にして、自分自身がアジカンライフヒストリーを必死になぞろうとして、全ては居場所を求めるがゆえの行為だったのだろうけれども、好きなものにそれだけ必死になっていてはいつか限界が来る。楽しくなかったわけではないし、むしろその逆だけれども、なんとも言えない疎外感があった。
 軽音サークルの新歓で肩身の狭い思いをしたように、そこに、居場所はなかった。
 
 そういった(ややトラウマめいた)経緯を素直に消化し納得できるようになった今、直感に従ってアジカンのライブに来られたのは僥倖だったのかもしれない、と思う。けっきょく音楽関連の企業に就職することはなく、それどころか就職活動自体に七転八倒して、それでもなんとかやっている、というのが現状だ。良くも悪くも、現実を知ることができた。あの日の未来に居場所がないことはもう知っている。
 あの頃、このバンドを知るきっかけとなった『ソルファ』の再録。今回のライブに来ることになったのは、それがきっかけだった。懐かしいな、と軽く手を出したこのアルバムが、予想以上に良かった。成熟した、といえばいいのか、楽器に関する詳しいことはわからないけれど、より洗練され、繊細でありながら重厚な音像が印象的だった。同じ曲をほぼ同じように(アレンジは加えてあるけれども)演奏しているのに、これほどまでに違うのか、と思わされた。
 聴いたままのテンションで、武道館公演のチケットを取った。ちょうど26歳の誕生日のことだったのを覚えている。自分への誕生日プレゼントにと、本当に軽い気持ちで取ったものだった。


  武道館前の階段を上がり、二階のスタンド席へ。ステージのほぼ正面となる座席を確認してから、物販で買ったTシャツに着替えるためにトイレに向かう。開場前BGMとして流れているスピッツの話をする若い女性たちとすれ違った。結成20周年を迎えてなお、若者にも広く聴かれているのはすごいな、と素直に思う。
 着替え終わって席へと戻り、あらためて会場を見渡してみる。8年振りのライブではあるけれども、広い会場を埋め尽くすだけの人が集まっていて、どことなく懐かしさを覚えた。未だに根強い人気があることが嬉しい。会場には老若男女多様なファンが集まっていて、8年前より年齢層が広くなっている気がした。小さな子供連れの家族に、それだけの年月をこのバンドが重ねてきたということを知る。

 客電が落ち、開演する頃には、自分のアジカンに対する屈折した感情は吹っ飛んでいて、素直にライブを楽しみにする高校生の頃の気持ちに戻っていた。
 腹に響くベースの低音が、お決まりのあのフレーズを刻む。『遥か彼方』。二十周年ライブの一曲目にこの曲を持ってくるこの選曲。周りのファン同様、自分も座席を立ち、拳を突き上げる。
 バンド自体の演奏もさることながら、舞台演出がまたいい。メンバーを覆う紗幕(後に曲の途中で降りる演出が素晴らしい)、複雑な図形を描き出す照明、そしてスクリーンに映し出される映像、そういった要素が合わさり、ひとつの舞台芸術を作り出している。これもまた「成熟」といえるのだろうか。聞けば『Wonder Future』のツアーでは建築家の光嶋裕介プロデュースの舞台演出をやっていたようで、近年はその辺りには力を入れているのだろうか。
 続く『センスレス』は大好きなアルバム『ファンクラブ』の名曲であり、まさか二曲目で! と驚かされ、そして映し出される「キミガココニツクナリハイタタメイキ……」の文面に「『the start of a new season』ツアーのときの!」と思い当たり、そのツアーに行った自分はもう、泣くしかなかった。

 あったじゃん、居場所。自分が勝手に盛り上がり、勝手に離れている間も、アジカンはずっとアジカンで、居場所はあったんだ。そう思えて、過去の迷いがアホみたいに思えて、泣けるを通り越して笑えてきた。
 自分がライブに行かず離れている8年の間に、ゴッチの髪型はモッサモサになっていたし、そもそもメンバー全員なんとなく歳を取ったように感じるし、ライブには自分と同じ仕事帰りの社会人が増えたように感じるし、あとサポートメンバーとしてthe chef cooks me下村亮介がキーボードをやっていることも知らなかったので(本当に何の下調べもせず行ったのです)驚いたけれども、それでもアジカンはやっぱりアジカンだった。

 自分のようなタイミングで戻ってきた人のためのものではないか、とすら思えてしまう、過去の名曲をふんだんに取り入れつつも、今のアジカンのモードもしっかり表明するセットリスト。大好きな『夜のコール』が聴けたのも嬉しかったし、懐かしい曲をと『粉雪』を演奏してくれたのも良かった。『今を生きて』の、現状を踏まえながらもハッピーでピースフルに昇華するモードが本当に素敵で、今のアジカンももっと聴いていきたいな、と思わせられた。あと現在公開中のoasisの映画の話からの『E』。この曲には、彼らが大学時代に演奏したという『Live Forever』のギターソロが入っていることは有名だけれど、それを踏まえてのこの流れ、本当にぐっとくる。今でもロックスターになりたい、というゴッチのMCも、本当に変わらないな、と微笑ましくなる。チクショー、こっちだってロックスターになりてーよ! そして『月光』終わりは反則だ。月の光のように黄色い光が一筋舞台に差し、曲の展開に併せて複雑な幾何学模様が天井に映し出される演出も反則。

 二部のソルファ全曲再現では、もうライブで聴く機会もないと思っていた隠れた名曲たちが、今のアジカンによって存分に鳴らされる。歴代ジャケットが映し出される『ループ&ループ』に涙腺が緩み(「君と僕で絡まって繋ぐ未来」「積み上げる弱い魔法」をうたうこの曲で過去の歴史を振り返るの最高すぎませんか)、武道館で聴く『ラストシーン』は本当に最高で、ギターリフに併せた映像演出と相俟って本当に美しかった。そして『Re:Re:』のこのアレンジは本当に良い……。ラストの『海岸通り』はストリングスアレンジが抜群に冴え、歌詞と重なる朱いライトが綺麗だった。

 MCで「若いバンドみたいな『お前らかかってこい!』というノリはもう年齢的に無理だ」と笑いを取るゴッチに時間の流れを感じ、「かかってこなくていい」という言葉に優しさを垣間見る。彼もまた、歳を経て丸くなったりしたのだろうか。喋り方にも棘がなく、暖かさを感じるようになった気がする。楽しみ方は皆の自由だ、というスタンスは変わっていないけれども、なんというか、自分のようなファンのことも許容する懐の広さのようなものがあって、それが前述の「居場所」の話にも繋がって、自分が肯定されたようで、また泣けてしまった。

 アンコールではゴッチの弾き語り二曲(『転がる岩~』は元から大好きだったのだけれど、『Wonder future』がメチャクチャ良くて大好きになってしまった。この曲、無性に切ない)からキタケンボーカル二曲というファンサービス(?)めいた一幕。『タイムトラベラー』は初めて聴いたが、優しい歌声がよく合う鮮やかな曲だ。
 最後の二曲ではスマホによる写真撮影が許可され(これも最近のライブで恒例になっているらしい)、自分も何枚か撮らせてもらったのだが、スマホを出してもいい曲であることを利用し、スマホのライトを点けてサイリウムのように振っている人が多く、客席に星が輝くような光景に少し感動してしまった。誰から言い出すともなくこういった光景が見られるライブは素敵だな、と思う。ストリングス入りの『さよなら~』も『新世紀~』も最高だった。この二曲、どちらも『マジックディスク』収録だけれども、歌詞が本当に沁みる。「いまこの時代に生きている僕ら」のために書かれた曲だと思うし、だからこそ普遍的に響くのだと思う。

 三時間にわたるライブを終え、武道館を出たとき、心の中は興奮と感動で一杯だったし、なにより「居場所はここにあった」と思えるライブだった。時間が流れた分、自分自身も変わったし、アジカンも変わったけれど、それでもここに帰る場所があったんだな、と思えてしまうほどに。
 一生懸命すぎて、周りが見えなくて、自分で自分に呪いをかけて、沢山遠回りをしてきたけれども、アジカンのロックンロールは再び自分の許へと届いた。紆余曲折を経てきたのはおそらく自分だけじゃなく、他のファンだってそうかもしれないし、アジカンだってきっとそうだろう(後に『マジックディスク』期の葛藤を知り、改めて二十年続けてくれたことに感謝したくなった)。帰ってきた、と思えるようになったのは、その回り道を経たがゆえだろうし、そう思うと、このタイミングで二十周年ライブを観ることができたのは、ある種運命的だったと言えるのかもしれない。
 演奏自体もとても良いものだったけれども、自分の過去の葛藤に決着をつけられた、という意味でも良いライブだった。なにかひとつ自分の軸になるものが欲しくて、傍から見ると恥ずかしいほどに必死になってアジカンを追いかけて失敗し続けた10代の自分が、なんとなく救われたような気分にもなった。フラットに聴けるようになった20代の自分のお蔭なのだろうか。そういうことを考えていること自体、面倒臭いファンであることの証左なのかもしれないけれども。

 ともかく、アジカン二十周年、本当におめでとうございます。いろいろと聴いてきて、いろいろと好きなものは増えたけれど、ここまで好きになれるバンドは、後にも先にもアジカンだけです。
 そして願わくば、これからも共に!

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【一部】
遥か彼方
センスレス
アンダースタンド
アフターダーク
夜のコール
粉雪
マーチングバン
踵で愛を打ち鳴らせ
今を生きて
君という花
E
スタンダード
ブラッドサーキュレーター
月光
【二部】
振動覚
リライト
ループ&ループ
君の街まで
マイワールド
夜の向こう
ラストシーン
サイレン
Re:Re:
24時
真夜中と真昼の夢
海岸通り
【EN】
転がる岩、君に朝が降る(弾き語り)
Wonder Future(弾き語り)
タイムトラベラー
嘘とワンダーランド
さよならロストジェネレイション
新世紀のラブソング

2017.4 他の方のレポートやドキュメンタリーブックを下敷きに、事実関係と文の乱れている個所を訂正。勢い余って途中からゴッチ呼びになっているのは面白いので残しておきます。

近況

 遅ればせながらあけましておめでとうございます。
 誰に見られるともなくやっているこのブログですが(もし見てくださっている方がいたらありがとうございます)、なんだかんだで長文をかける場所があるのはありがたいことです。惜しむらくはモチベーションがないことですね……

・前記事でアジアンカンフージェネレーション『ソルファ』再録の話をしましたが、CDを買って良さのあまり勢いで武道館ライブを予約し、勢いで行ってまいりました。後で個人的にレポートでもまとめようと思うのですが、すさまじく良かったので、最近はアジカンと周辺の音楽ばっか聴いてます。なんだかんだ言って自分にとっては「青春の音楽」になってしまったんだなあ、と(加齢を感じる)。

・シャーロックホームズを真面目に読み始めた(いま『四つの署名』を読んでいます)。漫画『憂国のモリアーティ』も面白いのでおすすめです。グラナダ版もちゃんと履修したい。

有栖川有栖『狩人の悪夢』、もうすぐ発売ですね。リアルタイムに連載で全部読んでいるのですが、個人的に(ミステリでない部分で)どんでん返しともいえる構造の妙があり、ちょっと解釈に時間がかかったのですが、そろそろまとまってきた感があるので、書籍化しだい読み返して感想を文章にしたいです。『鍵の掛かった男』以降の「もうディスコミュニケーションに引き返してはいられない」感は一体どこからくるのか、東日本大震災なのか、ドラマ化なのか、それとも作者の内面の話なのか、もうちょっと考えていかないとダメだと思う。

・震災以降の「ディスコミュニケーションからの脱却」テーマという面でアジカン『夜を越えて』と有栖川有栖『鍵の掛かった男』を論じる自分しか面白くないやつやりたい。

・あとそろそろ火村シリーズ入門的な記事を書きたい。意外とググっても出ないんですよね~

ASIAN KUNG-FU GENERATION『リライト』、10年の時を超えて語り直されるロックンロール

 いつも本の話(というかミステリの話)ばかりですが、今回は趣向を変えて音楽の話をします。
 といっても前に書いた通り、もともと高校時代にはてなで音楽ブログをやっていたので、個人的にはとても久々に音楽の話をするぞ、という感覚です。当時は批評の言葉も知らず、それどころか音楽批評を目の仇にしてきたところもあるので、今また別の言葉で語れるものがあるといいなあ、と思いつつ。


 結成20周年を契機にアジカンの名盤『ソルファ』が10年ぶりに再録されるとのことで、まさしく『ソルファ』を聴きまくった世代のアジカンファンとしては心待ちにしているのですが、再録版『リライト』のMVが発表され、さらにこんな企画まで。
natalie.mu
www.asiankung-fu.com

 フリースタイルダンジョンを観ていた身としては「すごい……R-指定がアジカンをトラックにフリースタイルラップしてるのが見られるなんて……」という感激もあるのですが(ACEともコラボしていましたし、後藤さん前々から結構ヒップホップも好んで取り入れられてるんですよね)、この企画自体がすごいな、と強く思いました。
 前述のCreepy Nutsはストレートに『リライト』のビートに乗せたフリースタイルで魅せていてカッコいいし、入江早耶さんの作品は初めて拝見したのですが消しカスでここまで創れるのか、という驚きと感嘆がありました。千原ジュニアの落語『死神』ネタは地味にうまい語り口にキレッキレのネタが合わさり、生ハムと焼うどんに至ってはもう何がなんだかわからないけど何故か謎の感動があります。
 ジャンルも表現方法も全く異なる四つの動画において再解釈された『リライト』。これは10年前にこの曲をリアルタイムで聴いていた身としては、また違った感慨があります。


 そもそも『リライト』とはどんな曲か。この時期のアジカンを追っていた人はわかると思いますが、いわゆるコピーコントロールCD問題についてのスタンスが色濃く出ている歌詞です。
 CCCD問題に関してはデビュー時から後藤さんは結構言及しており、まだ新人だった彼らは地位あるアーティストのようにNOを突き付けることも難しく、かなりの苦悩を強いられた部分も大きかったと思いますが、そうした葛藤や無力感がこの曲に結実しているのだと思います。だから「腐った心を/薄汚い嘘を/消してリライトして」なのですね。
 後藤さんのCCCD問題についての見解はこういう記事もあるので一読してみることをお薦め。
コピー・コントロール・ディスクを巡る回想記|Gotch / 後藤正文 / ASIAN KUNG-FU GENERATION / ゴッチ

 そういった政治的な言及を孕むプロテスティックなロックンロールであると同時に、この曲はアジカンの代表曲、ヒットナンバーでもありました。人気を博したアニメ『鋼の錬金術師』の主題歌に採用され、シングルは累計10万枚以上の売り上げを記録した(アジカンはアルバムが売れるタイプのバンドなのでこの数字は少なく見えますが)この曲は、よくも悪くも有名になりました。前述したサビの「消して、リライトして」というフレーズは独り歩きし、ある種ネタとしての消費も盛んに行われた(というか、現在も行われている)と把握しています。アップテンポな曲であることもあり、ライブではイントロが流れれば歓声が上がり、観客が拳を突き上げ盛り上がる場面が見られるまごうことなきアンセムといえるでしょう。


 作り手の意図から離れた個所で作品が独り歩きするのは珍しいことではなく、また否定すべきことでもないと思います。それはある種仕方のないことでもあるし、ヒットというのはそういうものでしょう。もちろんそういった作り手と受け手のズレにアジカンが悩まなかったわけではないし、それどころかものすごく考えてモノ作りをしていた人たちだと思います。『ソルファ』の次のアルバム『ファンクラブ』の一曲目を飾る『暗号のワルツ』が「君に伝うかな/君に伝うわけはないよな」という衝撃的なフレーズで終わるように。


 そういった苦悩をもどかしく見ていたひとりのファンとしては、この10年目の『リライト』は本当に感慨深いものでした。
 再録版のMVは旧版のMVの明確なパロディであり、『リライトのリライト』で再構築された『リライト』は、まさしく前述の「拡散していく中で多様な解釈が加えられさまざまな手法で消費されてきた『リライト』」じゃないですか。
 作り手の意志を汲んでCCCD問題について考え意見を表明してもいい。ただ純粋に音楽として楽しんでもいい。大好きなアニメのOPとして毎週楽しみにしていてもいい。カラオケで熱唱してストレスを発散するナンバーでもいい。ライブでみんなと盛り上がる曲でもいい。「けしてええええええええええ」とネタにされるのでもいい。そうやって書き換えられリライトされ、語り直されていくことで、この曲は人々の心に留まり、歴史に残り、永遠になっていく。
 もしかしたらこれは、自身の作品が戸惑うほどに広く消費されてきたこの10年間への、アジカンの一つの回答でもあるのかもしれない、というのは邪推がすぎるでしょうか。自分は勝手にそんな解釈をしてしまい、10年という時とその中での自分自身とアジカン双方の変化を思い、思わずうるっときてしまいました。

 
 と、ここまでファンの立場として書いてはきたものの、自分がアジカンを一番よく聴いていた時期は中高時代で(あの頃はロック聴くかミステリを読むかだったのです)、それ以降はライブに行く回数も減り、音源をぼちぼち聴くくらいには落ち着いた程度のファンです。飽きたとか好きではなくなったということでは全くなく、未だに「ああ、やっぱアジカンはいいなあ」と思うことがちらほらありますが、中高時代の自分のような熱量でいまアジカンを追っているファンの方の『リライト』への向き合い方ってどうなんだろうなあ。その辺はちょっと気になります。

僕らは「ゲームでしか味わえない感動」を知っている。――詠坂雄二『インサート・コイン(ズ)』

インサート・コイン(ズ) (光文社文庫)

インサート・コイン(ズ) (光文社文庫)


 大仰なタイトルになってしまった。
 ご存じの方も多いと思うが、「ゲームでしか味わえない感動がある」とは、NINTENDO64版『ゼルダの伝説 時のオカリナ』発売時のキャッチコピーである。テレビゲームの王様たるマリオシリーズもろくにクリアできない、いわゆる「ヌルゲーマー」としてゲーマーの末席を汚してきた自分も、このコピーは大好きだ(でも、『時のオカリナ』は未だクリアできていない。ゼルダシリーズは難しいのだ)。
 でも、果たして「ゲームでしか味わえない感動」ってなんなんだろう。そうやって改めて振り返ったとき、テレビゲームというメディアが映画や小説といった他の媒体と異なる大きな要素として、インタラクティブ性、つまり自分で操作できることが挙がると思う。

 近年、ゲーム批評界隈のバズワードとして「ナラティブ」という概念がクローズアップされている。
[CEDEC 2013]海外で盛り上がる「ナラティブ」とは何だ? 明確に定義されてこなかった“ナラティブなゲーム”の正体を探るセッションをレポート - 4Gamer.net

 物語論に多少の親しみがある自分にとってはすんなり受け入れやすい概念だが、ストーリーとナラティブを混合して語る向きは未だ多い。ゲームというメディアが(例外はあれど)インタラクティブ性によって独自性を確立している以上、用意されたリニアなストーリーより、プレイヤーが独自に獲得するナラティブが重要視されるのもしかるべき結果だろう(個人的に興味のある分野でいえば『ファイアーエムブレム』シリーズに途中からマイユニット要素が搭載されたことなど、このへんの流れで語れることがあると思う)。
 ひとはゲームから、個人に固有の「物語」を受け取る。
 だからこそゲームは思い出と密接に結び付き、プレイヤーの汗と涙、喜びや悲しみと切に関係を深めることができるのであろう。
 

 本作『インサート・コイン(ズ)』を手に取った直接のきっかけは、米澤穂信の寄せた帯文だった。

「世界なら何千回も救ってきたのに、自分一人を救いきれず、もがきながら『たたかう』を選び続ける、これは痣だらけの物語だ」

 これだけでも読みたくなるには十分なキャッチコピーだ。

 『インサート・コイン(ズ)』はゲーム誌ライターの柵馬を語り手に据え、往年の名作ゲーム(ファミコンスーパーファミコン期あたり)を題材にした短編が五作収録された短編集である。『マリオ』や『ぷよぷよ』『ゼビウス』、『ストリートファイター』に『ドラゴンクエスト』といったラインナップを挙げるだけでも十二分に訴求力はあるが、単なる「ゲームあるあるネタミステリ」に留まらない力が本作には存在する。
 その魅力とはなんだろう? 昔遊んだゲームたちを大人になったいま郷愁と共に思い出す、そういったノスタルジーだけでは前述の「あるあるネタ」の域を出ない。この作品はそこに留まらず、過去を懐かしみながらもうだつのあがらない現実と戦っていく力強さを持っているのだ。
 本作はゲームを題材にした小説ではあるが、それ以上に「書くこと」「語ること」「創ること」を描いた、普遍的な側面を持つ小説でもある。

「ほら、シューティングのハイスコアと同じでしょう。ルールを設定した者の想定を超えること。先人たちの誰もが想像していなかった文章を書けば、それは問答無用に読者を圧倒するものになるんですよ」
「でもそれは、簡単じゃありませんよね」
「不可能でもありませんよ。何も物理法則を超えろと言っているんじゃありません。無謬の神ならぬ誤る人が作ったもの、いくらでも超えようはありますよ」
(『インサート・コイン(ズ)』より)


 ミステリとは、「問いかけても答えない死者=謎にそれでも答え=解決を求めようとする人間」の物語である。つまり、本質的にディスコミュニケーションの文学たりえるのだ――というのが自論だ。言葉は言葉として発せられた以上、発信者の意図そのままに在ることは100%不可能であり、ひととひとが受け取り合う上で必ず大なり小なり摩擦を生む。
 それでも、ひとはコミュニケーションを志していくほかない。ひとは独りでは生きられないし、必然的にだれかを求めてしまうからだ。そんな不完全なコミュニケーションの中にそれでもさらなる活路を生もうとする意思、それこそが「シューティングのハイスコア」であり、謎という断裂を復元しようとする推理であるのだろう。伝わらないのなら、伝わらないままに受け取ればいいのだ。
 他者の「物語」を読み解こうとする意思、それが個々の「物語」を生成するためのゲームという媒体と、謎を解こうとするミステリというフォーマットの橋渡しとなっている怪作である、と強く思う。


 個人的なフェイバリットはまず『ぷよぷよ』を題材とした『残響ばよえ~ん』。初恋の人である中学時代のクラスメイトが抱えた秘密を十年越しに解き明かす、過去を懐かしむ日常の謎ミステリの体裁をとっているが、設問と解答の明確さ、また解答に至るまでのヒントの回収の美しさが純粋にミステリとしてポイントの高い作品になっている。有栖川有栖『ハードロック・ラバーズ・オンリー』のゲーム版、といったらわかる人にはわかるだろうか。
 また、ゲームを題材にしたミステリというだけあり、ただゲームの話が出て終わりというわけではなく、テーマとなっている『ぷよぷよ』の持つとある特性が謎解きのヒントになっているところも良い。ゲーム論と併せて「なるほど」と唸らされた箇所である。アーケードゲームの描写もその筋のゲーマーにとっては嬉しい部分だろう(自分はあまりアーケードやらないんですよね)。

 あとは最後に収録されている『そしてまわりこまれなかった』。自殺した友人からの最期の年賀状に込められた『ドラゴンクエストⅢ』の謎を解く、つまりは「ディスコミュニケーションに終わった死者の言葉を復元する」ミステリらしい話である。世代であれば(自分は実は世代より下なのですが、GB版をめちゃくちゃプレイしました)かなりの割合の人間がプレイしたであろう超名作を題材に、ゲーム自体にも新たな解釈を付け加えつつ、それが死者の意志を読み解く最大のヒントになりうるという構成も見事な作品だ。読み終わってタイトルの意図がわかった瞬間、鳥肌が立つこと間違いなし、といえる。
 幼少期にゲームに親しみそのまま成長し、社会人になってプレイのためのまとまった時間もなくなり、それでもゲームを辞められないまま愛し続けている、そんな大人たちに是非読んで欲しい作品。



 というわけで、『ドラクエⅢ』を再プレイしようかと思ったんですが、手許にあるはずのGB版が見つからず、なぜか『ドラクエⅠ』をやっています。竜王強い……強くない?

雑記 『狩人の悪夢』と『ダークナイト』とか 

※『狩人の悪夢』連載最新話の話題に触れています。トリック、推理等に関する言及はありませんが、文中の引用がありますのでご注意ください。



ご無沙汰しております。最近話題のハイローを視聴し始めました(次の映画までにはドラマ完走したい)。あとダンガンロンパ3の展開がつらいです。
10月は観たいドラマも欲しい本も増えるし個人的にも忙しいのでヤバそうです。

有栖川有栖『狩人の悪夢』、相変わらず熱冷めやらず文芸カドカワで連載を追ってます。
事件の新展開と解くべき謎が明確化してくるに伴って、ここにきて明確に「探偵は何故探偵なのか」=「火村英生は何故探偵行為を行うのか」を問い糺すお膳立てが整ってきたな、という感じですね。火村にとって探偵行為は目的か結果か、というテーマ性の話は前記事でしましたが、段々その答えに至る過程が理解できてきました。
火村の内面には探偵行為を手段とする思想(=研究者としての火村英生=人間性)と、目的とする思想(=狩猟者/名探偵としての火村英生=怪物性)の両極が存在し、それらの拮抗こそが『狩人の悪夢』で語られる物語になるのか、と感じます。そしてこれはドラマ版の「自身の怪物性と共存していく話」に接続可能ですよね。原作がどんな回答を打ち出すのか非常に楽しみ。


今回のこの部分。

「火村先生の出る幕はないどころか、お前に打ってつけの事件になってきたみたいやないか」
 彼は、能役者のごとくゆっくり面を上げた。写真班が焚くフラッシュのせいで、一瞬、その顔が人間離れしたものになる。
「そうだな。この現場は、とても面白い。犯人の呻き声や悲鳴がこだましている」

直後の描写(この台詞を口にしながら火村は笑っている)から明確に作者が意図しているのがわかりますが、前述の「人間性と怪物性の相克」における「怪物性」に振れた描写の最たるものがここではないでしょうか。火村の笑み、といえば、『妃は船を沈める』で高柳にそれを指摘されるシーンがありましたね。彼の笑みは火村シリーズにおける怪物性の象徴ともいえるでしょう。
今作の『狩人の悪夢』においては、とにかく目まぐるしくこの両極に振れるシーンが連続する印象があります(全部拾って例示するのはちょっとめんどくさいので、読んでいる方がいたら意識してみてください)。敢えて火村の印象がブレるように描かれている気がするんですよね。このジェットコースター感が意図的だとしたらものすごい挑戦的。


このシーンでなんとなく思い出したのは、バットマンに出てくるヴィランの一人・トゥーフェイスでした。
元は正義を是とするゴッサムの検事で、ある事件をきっかけに顔面の左半分が焼け爛れる怪我を負い、狂気の人格に目覚める男。
自分は寡聞にしてアメコミに疎く、クリストファー・ノーランの三部作で初めてちゃんとバットマンに触れたのですが、『ダークナイト』のトゥーフェイスがめちゃくちゃ印象的だったんですよねぇ。高潔だが悪を憎む気持ちが強すぎてジョーカーに魅入られる処刑人。一人の人間に共存する善性と悪性を象徴するかのような強烈なルックスですよね。
で、なんで思い出したのかなぁと考えてみると、勝手に頭の中で思い描いているイメージもあるんでしょうけれど、そうかこれは「火村英生という人間の人間性と怪物性の両極」が「光と影」でそのまま見た目に投影されているからか、と気づきました。効果としては半分焼け爛れた顔面と同じ。一人の人間の顔(というのは心情とか思想の象徴なわけだよね)に非人間性が上乗せされている。火村がああいった信念を持っている名探偵である以上、人間性と怪物性はコインの裏表でしかない。

ただ、『狩人の悪夢』におけるこのシーンが皮肉なのは、「殺人事件を面白がる」火村の怪物性を露わにするのは闇でなく光、というところなんだよなぁ。
写真のフラッシュというのも意味深で、『狩人の悪夢』はいつになく火村に関する情報がどう流れどう堰き止められているかの話が盛り込んであるので、本当に報道陣にフラッシュ焚かれるような自体になるんじゃないかとヒヤヒヤします。「名探偵と権力」の話は法月綸太郎作品(そういえば実写化ですね!)を読んで「政治的やり取りにちゃんとコミットして戦略をやる探偵すげー!」みたいな気持ちになったので、ちょっと火村シリーズで見てみたい気もします。



余談を重ねます。『ダークナイト』のトゥーフェイスに関する話で、とても興味深いと思った伊藤計劃氏の評。
d.hatena.ne.jp


ハービー・デントという人間の両極を背景美術によって表すサブテクストの力。伊藤さんの『ダークナイト』評といえばこっち(ダークナイトの奇跡 - 伊藤計劃:第弐位相)が有名で、自分自身「世界精神型悪役」の話など結構引用させていただいているのですが、こちらの記事もなるほどなと思わされた記憶があります。
多分この記事のことが念頭にあって、例のシーンを読んだときにダークナイトのことを思い出したんじゃないかな、と思うので、紹介しておきます。


ここまで書いていると、いろいろ特に関係ない考えが出てきました。
・能とか狂言みたいな芸能って遡ると神降ろしに行き着くもので(幻影異聞録の話か???)、「能役者のごとく」という比喩は単純に動きを表したものでもあると思うんですけど、「人間離れ」する先は怪物であり神なのでは、シン・ゴジラだ……(シン・ゴジラ面白かったですね……)
・というかもう割と捻りなく『ダークナイト』のトゥーフェイスと火村共通点ありますね
・でも『ロジカル・デスゲーム』の火村は『ダークナイト』のバットマンと同じ決断を下したんだよなぁ
・背景美術を利用したサブテクストといえば、何を隠そう(?)『臨床犯罪学者 火村英生の推理』に思い当たる場面がある。7話のラストシーン、鍋島の背中を映すカメラが左にパンし、鍋島を境界として故人である緒方が画面左に現れる演出。ちゃんと確認してないんだけど、多分左にしか姿が現れない。
これは人間の立ち姿を境界として画面左が過去、右が現在の領域を表してるんだと思うんだけど、この回『朱色の研究』自体が過去の事件と現在の事件が相関しあうつくりになっていて、ここで過去の因縁との決別として現在と過去の境界が描かれていたんだなあと先の伊藤氏の記事を読みつつ今更ながら思った。



また書きたいことだけ書いてしまったのでそろそろ『切り裂きジャックを待ちながら』の原作・ドラマ比較とか書きたいです。『ペルシャ猫の謎』は割と評判芳しくないせいか、批評的に未開拓の土地すぎて踏み入るのがめちゃくちゃ楽しい。


一方その頃MIGHTY WARRIORSは湾岸地区で着実に勢力を伸ばし続けていた…

近況等、ミステリーナイトと火村シリーズ連載話


 また放置してしまいました!
 少し環境が変わったので忙しかったのもあるし、気持ち的な問題もあり、という感じでした。火村シリーズドラマ感想記事も10話まで土台が出来てるんですが、細かい部分で観返して書き直そうとか原作読み返そうとか思ってる間にあれよあれよとDVD発売まできてしまいましたね。ボックス買ったのでちょくちょく書いていきます。
 よくわからない空気に対抗するために自分に出来ることは言葉で戦うことしかないな、と……。
 あと原作に関する評論文もいくつか用意してます。最近ちょっと作家史的な発見をしてしまったのでまとめて書きたい。有栖川作品以外にも感想を書きたい小説映画等沢山あって困ってます。FEサイファの話もしたいです。文章を書く時間と集中力が欲しい……



 近況としては、今夏もE-pin企画さんのミステリーナイトに参加してまいりました。
ミステリーナイト2016|とり残された学園:ミステリーナイト公式サイト[Mystery Night]
 個人的には4年目の参加になります。前年はまさかの有栖川有栖回(!)であり、参加メンバーも今までになく多かったのですが、残念ながら納得のいく結果にならず悔しい部分があり。今年は4人での参加だったのですが、いつになくスムーズに捜査が進行、犯人もトリックも殆ど納得がいく状態で10分前に提出が終わる快挙で、なんと一緒に参加した後輩が最優秀新人名探偵賞をいただくまでになりました。感涙!
 まさか身内から受賞者が出るとは思っていなかったので本当にびっくりしました。おめでとうございます…… 全員で解いていったので、他のメンバーも数点差くらいだったのだと思いますが、これはもう来年自分自身も入賞狙うしかねえな!? と思ってしまいますね。是非来年こそ有栖川ファンの底力を見せつけたいと思います(笑)

 アダルティな(?)前年とうってかわり、今年は学園を舞台にした物語でした。閉ざされた男子寮に伝承と祟りというめちゃくちゃテンション上がるお膳立て。といっても過去の事件を回想する形なので(ミステリーナイトにはありがちですが)役者さんは割といつもの面子の方もいらっしゃったりしました。
 同行メンバーの間でも話が出ましたが、例年になく「怖い」話だったと思います。話の筋はきっちり謎が解けるミステリでありながら舞台という形でこうもぞわーっとする後味をぶつけてくるのか! と思いました。脚本・演出両面で非常に工夫を感じました。去年のプロジェクションマッピングが凄かったので今年はどうかな、と思っていましたが、全然面白かった!!!

 というわけで、同行してくださった皆さんありがとうございました。お手数おかけしてしまってすみません。来年もやるとしたらもう少しちゃんとやります(反省)
 ところでミステリーナイト大阪の会場って中之島のリーガロイヤルなんですね、中之島のホテルで謎解きなんて『鍵の掛かった男』じゃあないですか。いいなあ大阪!

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 ホテルメトロポリタン朝食バイキングといえばこのオムレツ。今年も美味しかったです。
 来年も楽しみにしております。


 ついでに火村シリーズ連載の話。
 ドラマ化で熱が上がったこともあり、リアルタイムで読ませて頂いてます『狩人の悪夢』。単行本待ちの方も多いと思うので、本筋のネタバレにならない程度にちょっと感想を。
 ミステリ部分については伏せるとして、これはかなり火村シリーズの転機になりえる作品になる予感がします。火村シリーズのひとつの転機といえば自分としては『朱色の研究』で、これは1995年という時代にブチ当たった本格ミステリの一つの苦悩と回答の物語だと思っています。今回はそういう時代的な転機とは少し違う、ドラマ化というターニングポイントなのかな、と。

 ドラマ版は観ての通り、原作版では継続していくシリーズものとしての制約がある部分を、1クールドラマという一定の終わりを予定された媒体に転化していくために、「火村英生の謎と決断(≒成長)」という筋を加えられたものでありました(もちろん、原作版にもその要素はあります。現状話を進めにくいだけで)。
 火村英生という探偵役の核とはすなわち「かつて限りなく殺人という罪に接近したが踏みとどまった」「だからこそ一線を超えようとする犯罪者を許さない」部分であり、火村シリーズの思想性である「人は誰しも犯罪者になりうる」(→『46番目の密室』冒頭)はその核に繋がる部分です。火村シリーズに出てくる犯罪者が良くも悪くも特殊な存在でないのは、そういったテーゼに基づくものでしょう。
 ドラマ版はその核に対し一つの思考実験を行いました。それは「火村の眼前に再び他の方法ではどうにもならない悪が顕現したとき、火村は人を殺そうとするのか?」という部分です。ドラマ10話と特別編を通して火村が辿り着いたのは、過去の自分とは異なる道、すなわち犯罪者を生かす道でした。原作でも『女彫刻家の首』(『スイス時計の謎』収録)ラストなど、「犯罪者を生きて法の裁きに引き摺り出す」ことを重視しているのはわかりますが、では過去の再演となったとき、火村は果たしてどんな選択をするのか? というのがポイントだったと思います(これに関しては原作でも気になるところです)。ドラマ版の火村が選んだ道は「過去の自分と同じ轍は踏まない、ただしそこで終わりではなく、自身の『殺意』という怪物には一生を懸けて付き合っていく」というほぼ完璧なアンサーでした。

 この「選択」は火村シリーズの裏テーマの一つでないかと最近考えているので別の機会に文章にしたいのですが、それはさて置いて。そうした火村の「選択」を主軸に据え、さらにまさしく火村の「二択を拒絶する第三の選択」が核となる『ロジカル・デスゲーム』を最終話に持ってくる慧眼には驚かされましたが、では翻って原作はどうか。前述の通り、原作版で火村の闘うべきテーマに対し、ドラマ版は一つの答えを見出しました。物語とはすなわち現実に対する解釈であり、ドラマ版自体が原作版に対する一つのアンサーとなりえる展開といえます。
 自身の突き詰める問いに対し一つの答えが出たことを、有栖川は真摯にも受け止め、更なる答えを返すべく始まったのがこの『狩人の悪夢』ではないか――というのが、自分が受けた印象でした。

 題名から同様の印象を受けた方も多いと思われますが、『狩人』は犯罪者を狩る火村自身のこと、『悪夢』とは殺人の悪夢を思わせる題名からしてクリティカルです(『鍵の掛かった男』が梨田と火村のダブルミーニングであったように、『狩人の悪夢』はナイトメア・ライジングと火村のダブルミーニングになるのでは)。実際に作中で既にその辺に触れられており、更に火村自身の危うさに突っ込んだ話になっているので、個人的には「狩人が獲物を狩るのは目的か手段か=火村にとって目的と手段が逆転してきてないか?」の話になってくるのではないか、と考えています。火村シリーズとしても、ミステリにおける名探偵論としても重要な問いではないでしょうか。
 そう考えて読むと白布施の設定も「『46番目の密室』の真壁の反転かなぁ」と思わされたり。

 直接ドラマ版のネタを拾うこともできただろうに、そうした表面的なやり方でなく(それっぽいのもありますが)核を尊重した形での「答えに対する答え」としての『狩人の悪夢』だとしたら、有栖川はやっぱすげえよなあ……エレガントだなあ……と思います。

原作ファンがドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第六話・第七話を観ました

 こんばんは。相変わらずノロノロ更新のドラマ感想ブログと化しています。
 ドラマといえば、今期は『火村英生の推理』以外にもいろいろ観ております。普段あまりドラマをリアルタイムで観ない人間なのですが、何の因果か昨年末からテレビの前に居座る時間が長くなってしまいました。やっぱりサスペンス・推理モノが多いのですが、演出の違い等較べてみると面白いです。ドラマといえば『シャーロック』の映画を観に行くためにドラマ版3シーズン一気見とかもしました。映画面白かったですね!

 というわけで『火村英生の推理』感想です。相変わらずドラマと原作のネタバレに触れております。今回は前後編なので、二話まとめて。引用の範疇で画像も掲載しつつ感想を追っていきます。


☆6話『朱色の研究(前編)』・7話『朱色の研究(後編)』

 原作は角川書店『朱色の研究』より。

朱色の研究 (角川文庫)

朱色の研究 (角川文庫)


 前の記事で朱色の研究好きと書きましたが、そんな自分が唸らされるとても良い回でした。
 褒めたい部分は沢山あるのですが、延々書き連ねているときりがないので困ります。


 まず、今回のドラマが原作をどう編集したのかという点について、二つのことが言えると思います。
『朱色の研究』を貴島朱美の(成長)物語として再構成した
作品を「夜明け前の殺人」「黄昏岬殺人事件」「真夜中の放火犯」の三つの要素に分け、その相関で物語を進めた


 前者に関して。原作『朱色の研究』におけるキーパーソンであり、事件解決の重要な手がかりを握る朱美をフィーチャーすること自体はある種当然の話なんですが、ドラマ版では彼女をシリーズ通してのレギュラーキャラクターに据えたこともあり、より彼女のパーソナルな部分の話として構成されているように感じます。
 この采配、原作の時点で彼女が好きな自分としては単純に嬉しかったということもありますが、物語自体に一本の確固たる軸を付与すること、また「自分自身の過去のために探偵行為を行う火村が、その過程で(意図的かどうかは置いておいて)救うことのできた人間」にスポットを当てること、そういった面で非常に興味深い選択であったと感じます。後者に関して、ドラマ版の火村は内面の葛藤に注力して描かれているため、より重要性が高くなったのではないでしょうか。

 この物語の中で、貴島朱美という人間に与えられた役割は「トラウマの克服と成長」という精神分析的主題でしょう。過去に遭遇した事件から、夕焼けのオレンジ色に共感覚的な恐怖症を持つ朱美が、事件を経て自身の見たものと向き合い、それが事件の解決に繋がっていく――というのが、原作での切ないながらも前向きなラストシーンに繋がっていく一本のストーリーラインとなります。
 ドラマでは、前フリとして各話で朱美の日常生活とそこに見え隠れするトラウマの片鱗が少しずつ描かれていく構成で、視聴者に関心・感情移入を促す色合いが強くなっていたように思います。ちなみに、ドラマ一話の時点で夕暮れのシーンにはオーバーレイのようにして炎が燃え盛る様子が重ねられており、原作を知らずともじっくりと見ていれば朱美のトラウマの正体にはある程度推測できるようになっています。

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©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』一話より

 原作では、この「トラウマの克服と成長」は、朱美が事件の調査を依頼した火村に自身の悪夢について打ち明け、その悪夢を現実の反映と考える火村の推理によって犯人の前に真相が明らかにされる構造です。物語後半、火村が自身もたびたび悪夢に悩まされること、そしてその内容が殺人を犯す夢であることを明かし、朱美からの告白を引き出すシーンは、印象的に感じる方も多かったのではないでしょうか。
しかし、ドラマでは悪夢の話は比較的早い段階でなされ、事件解決の場面に至り、火村は関係者の前で敢えて朱美の悪夢を組み込んだ推理を披露し、関係者たちに否定させることで、逆説的に朱美から悪夢が現実の反映であるという自認を引き出すという戦略をとります。
 荒唐無稽なやり口に見えますが、ドラマ版が「貴島朱美のトラウマの克服と成長」に的を絞って構造を練るなら、より確固たる手法で朱美に過去からの逃避を克服させる必要があったのでしょう。作中で火村と有栖川が「カウンセラー」という比喩を用いていましたが、受け入れがたい過去を自ら認めるように差し向ける、という手法はより精神分析的であるように思えます。
 朱美の成長、という観点から言うと、物語ラストシーンの会話の差異も印象的です。

「どうしてみんな、夕陽がきれいだと言うんでしょう。暗い夜がくる前触れなのに」
 朱美は眩しくてならないというように目を細めながらも、顔をそむけない。
「夕陽は没落の象徴でもあるし、確かに闇の前触れでもあるけれど、それだけでもない」火村は言う。「生まれ変わるために沈むんだから」
 朱美の唇が動く。
 ――生まれ変わるために沈む。
 私は、何かで読んだことを思い出した。
「ねぇ、貴島さん。火星行きのロケットに乗れるようになったら、みんなで出かけませんか? あそこでは、夕焼けは青いんだそうですよ」
有栖川有栖『朱色の研究』文庫版p403)

「貴島君。私は有栖川にカウンセラー失格の烙印を押されたが、聞いてくれるか?
君のオレンジ恐怖症は、実体験の恐怖と、それに対して自分を責める罪の意識が根底にあった。だが今回、君はそれを受け入れることができた。
事件が解決したからって、君の抱えている全てが解決したとは思わない。でも、あの太陽が沈めばまた新しい一日がやってくる。
君にとって、新しい一日が」
「私もいつか、夕陽をきれいだって思える日がきますよね」
(ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第七話)


 自分自身気付かなかった部分ではあるんですが、原作での青い夕焼けのくだりが使われなかった理由について、「ドラマ版の朱美は今まさにトラウマである朱い夕焼けと向かい合おうとしているからではないか?」という感想をおっしゃっている方がいて、ハッと気づかされました。
 原作のラストは「これから過去と向き合っていくための第一歩」のような、朱美が向き合うべき今後の長い道のりを想定させる余韻を残すラストであり、一作完結の長編小説として効果的に演出されていますが、ドラマのラストでの朱美は自分のトラウマとしっかり向き合い、涙を流しながらも立ち向かっていくフェイズにまできているんですよね。
 連ドラという媒体ならではの良い独自演出だな、と思います。ここ、台詞を突き合わせて読んでみると、火村の台詞なんかは原作とドラマで同じ意図を示しているのがわかりますし(ドラマは判りやすく説明的ですね)、それに較べて朱美の受け止め方はだいぶ異なるようにとれます。先の話になりますが、8話での朱美の行動を考えると、この話で彼女は過去を受け入れ成長した、と見せたいのがよくわかると思います。


 後者の三要素について。
 漫画版では「夕陽丘殺人事件」「枯木灘殺人事件」と銘打たれて前後編になっていたように記憶していますが、この作品を評するとき大体の人は「過去と現在の二つの事件が相関して……」という説明をすると思いますし、そういう構造として捉えるものでしょう。
 ドラマ版では前述のとおり朱美を主軸に話を進めるに伴って、朱美のトラウマの一因となった放火事件をクローズアップし、三つの謎として火村・有栖川と対峙させるようになっています。「夜明け前の殺人」「黄昏岬殺人事件」「真夜中の放火犯」というネーミングからわかるように、これらは全て時間軸に紐点けされています。日が落ち夜が訪れやがて夜明けを迎える、というのは、「落陽の後には新しい日がやってくる」というラストシーンの台詞にもかけられているのでしょう。
 また、そもそもこの『朱色の研究』という作品自体が、過去と現在の事件が絡み合う、時間軸を意識した作品であることにも留意したいです。ドラマ版ではより強く「過去と現在が入り混じる」イメージが用いられていたと思います(鍋島と緒方のエピソードなんかもそうですね。過去の無念を現在で晴らす、というリンク。また、このくだりは「探偵は死者の声を聴く」という原作での言及も意識したものではないかと思います)。
 三つの場面が目まぐるしく入れ替わる推理シーンなどは、その最たるものでしょう。このシーンは自分の周りでも好評でした。元ネタを探そうと思えば探せる演出かもしれませんが、要素の組み合わせと意味づけによって非常に独自性の高い演出に仕上がっていたと思うので、その辺に言及しておきます。

 推理披露シーンでは、登場人物を残したまま三つの場面が次々に転換していくつくりです。
 まずは、現実に関係者たちが存在するであろう別荘の一室。

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©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』七話より

 次に、事件の再現シーンで使われる黄昏岬。

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©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』七話より

 事件を再現するための演出であると同時に、朱美が囚われた過去の象徴でもあります。


 最後に、火村が関係者たちに解説するときに使われる教室。

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©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』七話より

 黄昏岬のシーンが朱美の領域だとするとこっちは火村の領域。
 「犯人からの挑戦に応える探偵」という構図で進めるにあたっての演出でしょうか。
 スクリーンに映し出された火事の光景が火村の姿に重なるカットが印象的です。原作でもそうですが、朱美と火村はネーミングからも判るとおり物語構造上対になる存在であり、似た要素を持つ登場人物です(ドラマ版はさらに対比構造が多いですが)。そのへんを意識してるのかな。

 この三者のシーンが目まぐるしく入れ替わることで、過去の事件が現在の事件に浸食してくる構造、また朱美の夢は果たして現実なのか、というくだりの不安定感が巧く描かれています。ただこの演出をやりたかっただけじゃなく、しっかり物語上意味のある根拠のもと使われている、ということでしょう。美術系の人と観てたら「これシュールレアリスムっぽい表現だね」とおっしゃっていて、夢と現実が混濁する感じかなるほどなと。
 多分演出だけだったらこういうやり方をするドラマはいくつもあるのだろうけど、このドラマは割と指針が明白な気がします。モーションタイポグラフィも「本格ミステリドラマをやる上での視聴者への適切な情報開示」の意味合いが強いですね。それ系の演出だと『シャーロック』が引き合いに出されがちなんですけど、あれは主人公であるシャーロックの見ている場面を再現するための演出、という色合いが強いので、意図が違うよね(そういう意味で『シャーロック』っぽいのが今期の『スペシャリスト』ですね。あれも宅間の見ている光景を視聴者に提示する意味合いが強いと思う。火村と関係ないけどおもしろいです)。このドラマと意味合いが近いのは日テレ繋がりになるけど『ST』あたりかな?


 原作でも『朱色の研究』は火村英生という人物造形の核に迫る話ではありましたが、ドラマでもクライマックスに向けて布石を打ってきている感じがしました。例えば小野との犯罪談義。

「コマチさんも、一度目の撲殺が衝動的ならば共感できるでしょう。
できないというならそれは嘘だ。
人間誰しも一瞬の怒りや憎しみ、つまり殺意の種を持っている。それ自体は犯罪ではない。
現に、憎しみをもって藁人形を打ったところで、法では裁けない」
「肯定はしません。だが、殺意を持つこと自体は否定しない。だからこそ、私は実際に殺意を行動に移す人間を許さない」
(ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第七話)

 この火村の台詞自体は至極妥当で、内心は法で裁けないという当たり前の話をしているんですが(内心が裁けてしまうとディストピアSFになるんですよ)、恐らく『46番目の密室』冒頭シーンと同様の意図があると思われます。火村シリーズ自体の「人は誰でも犯罪者になりうる」「犯罪者は特殊な存在でなく、我々と同様の人間」というテーゼの象徴ですね。後の平泉成(すいません役名忘れました)の台詞からも、火村のそのへんの掘り下げがされていてよかったです。刑事ドラマにおける「犯人を追う刑事は犯人と同様の思考をすることが必要」メソッド好きなんですよね……。

「確かに、あんたの言うように、彼の眼の奥には冷たい冷たい光があった。犯罪者と同じような。
しかし、その狂気みたいなもんは、犯人を必死に追いかけるもんにも宿る。
今の鍋島君やあの日の緒方君、そしてあんたの眼にもある。わしはそれを執念と呼んどる」
(ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第七話)

 火村の犯罪捜査にかける情熱を「執念」と評してくれたのは本当に原作ファンとして褒めたたえたい。
 ただテレビドラマという体裁上、殺意を安易に肯定するわけにもいかないですし(笑)、また原作を知らない視聴者へのわかりやすいスタンスの説明になっているのかもしれませんね。あと、小野と火村の立ち位置の違い、考え方の違いは一話から出ていましたが(一話感想でも46番目の密室の話をした気が……)、ここに来て明白化する意味もあったと思います。規範的・倫理的に正しくあろうとする小野と、内心がどうであれ実際の行動を重視する火村の差。
 詳しく言うと原作のネタバレになるので控えますが、最終回へのブラフの意味もありそうです。制作陣としては、火村を「あちら側」に行きそうな存在に見せたいのですから(そして、それをどう裏切るかが最終話の楽しみなんだよな……)。

 前の記事で、ドラマ版火村の「犯罪者は憎むが犯罪を愛する」設定が明瞭でなく指針が見えにくい、という話をしました。しかし、ドラマを追っていて気付いたんですけど、おそらく「この犯罪は美しくない」という台詞自体がブラフというか、「火村が何故そんなことを口にするのか?」という謎として制作側が視聴者に提示したかったものではないか、と。9話予告ではっきり「美しい犯罪などない」と言い切っているあたり、この台詞って「全ての犯罪は美しくなどないものを確認する」ためのものなのではないか、と思えてくるんですよね。
 ドラマから観た人は純粋に「美しい犯罪とはなんだろう」と考えますし、原作を知っている人は「火村が犯罪に対して美しいという視点を持つのか?」と考えるでしょう。おそらくその反応すら想定済みで、「じゃあなぜ火村がこんなセリフを口にするのか、お前たちが当ててみろ」と言われていたのではないでしょうか。……という「キメ台詞ミステリ説」を提唱しつつ、次の話を楽しみにしたいです。


 「夕景モチーフなだけあって各シーンのライティングにものすごい気を遣ってる」とか「香水のくだりは6話ブラフかつ7話真犯人に繋がる要素だし双頭の悪魔リスペクトだしめっちゃ細かいとこ仕込んでくるな」とか他にも言いたいことがめっちゃありますが、この辺にしておきます。
 本当は動機の話にも触れたいんだけど、『朱色の研究』の動機の話はそれだけで記事一つ埋まるから……個人的には、原作のアレは「1995年的なモノ(阪神淡路大震災地下鉄サリン事件、終末論・オカルトブーム)へのミステリ的回答」だと思っているので、そういった説明が難しく時代性もあるマクロの部分よりミクロの人間関係だけに絞ってクリンナップしたのはよかったな、と。今2016年だしな……。
 今度、原作の『朱色の研究』に関する記事も書きたいと思います。大澤真幸を読まざるを得ない。