幻想俯瞰飛行

生存記録を兼ねて長文を書くためのブログ。文章読んだり書いたりします。 

ASIAN KUNG-FU GENERATION Tour 2016-2017「20th Anniversary Live」 at 日本武道館(1/10)、あるアジカンファンの記録

(ライブレポートというより、中高時代アジカンが好きで好きで仕方なくて愛が重すぎたクソめんどくさい20代のどうしようもない思い出話なので、そのへん覚悟して読んでもらえると有難いです)



 冷え込んだ土日よりは少し暖かくなったとはいえ、一月の寒さが沁みる十日の夕方。九段下駅を降り、日本武道館へと向かう。物販の時間を考えるともう少し早く辿り着きたかったが、平日なので仕方がない。
 武道館の前を通ったことは幾度かあるが、武道館に入るのは初めてだ。ライブの聖地と呼ばれる場所。特別な思い入れがあるわけではないものの、ライブに向かうこと自体がかなり久々であるので、いやが上にも期待と緊張を覚えてしまう。
 北の丸公園に入ると、同じ目的の人々で溢れていた。ここにきてようやく武道館へ赴いた実感が強く湧いてくる。そもそもがなんとなくの軽い気持ちで取ってしまったチケットで、年明けから前日まで体調を崩していたこともあり、来られるかどうかというところから不確定だったライブだけれど、やっぱりライブ当日というのはいいものだ、と懐かしい気持ちにかられた。

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 武道館を前にしたところで、自分がアジアン・カンフー・ジェネレーションのライブに足繁く通っていた頃、中高生時代のことを思い出していた。
 アジカンを好きになった正確な経緯は覚えていないが、時期としては『ソルファ』、というか『リライト』の頃だと思う。FMラジオを愛好していた中学生時代の自分は、その前からちょくちょく『君という花』なんかを耳にしていたように思うが、正確にバンド名を認識したのはアニメの主題歌としての『リライト』だったはずだ。時期にして2004年、つまり13年前のことになる。
 その後、おそらく『ソルファ』を聴きこのバンドに関心を持ったであろう自分は、2005年頃に本格的にバンドを追い始める。アニメ主題歌から入った、と言った通り、自分にはもともとロックを聴く趣味などもちろんなく、(当ブログをご覧の方には察しがついているかもしれないけれど)教室の片隅で推理小説を読んでいるタイプの人種だった。そんな自分にとって「ロックバンドにハマる」という経験は何より新しかったし、刺激的だった。日記にある当時の自分の言を借りれば、「世界が変わった」出会いだった。
 CDを集め、音楽雑誌を買い、ラジオ番組を毎週欠かさず聴いてMDに録音し、公式サイトをくまなくチェックし(当時はもちろんツイッターがまだ存在しない頃だった)、そしてライブに行く(初めて行ったのは記録を見る限り2006年のNANO-MUGENだと思う)。全く知らない世界を知り、そして音楽の楽しさを改めて覚えて、それこそ熱病に浮かされたように熱狂することになった。
 公式サイトに掲載された後藤正文の日記をくまなく読み、日記やラジオ番組で紹介されるバンドの音源を一生懸命追いかけた。アジカンだけでなく音楽自体のファンであってほしい――という彼らの願いに応えるように古今東西のロックを聴き漁り、学校では友人と音楽の話をしてCDを貸し借りし、放課後はレコード屋やツタヤに入りびたって、それなりに楽しい日々を送ったのだと思う。はてなダイアリーでブログを始めたのも2006年のことで、現在は閉じているものの、もしかしたら覚えている方もいるかもしれない(『君という花』のPVロケ地訪問記事など書いていました。当時の読者さんが見てたらすごい)。
 ライフスタイルも変わったし、趣味嗜好も変わった。着るものも変われば行く場所も変わり、音楽という趣味を媒介して付き合う友人も増えた。もともと好きなものに影響を受けやすいせいで、言動など後藤正文の真似をしてみたり、少々、いや、かなり「痛い」ファンではあったと思うけれども、それでもかなりの文化的教養の許になったとも思う。
 いまになって思えば、アジカンが自分の人生に及ぼした影響は計り知れないほど大きい。このブログは推理小説の感想を書くために始めたものだけれど、推理小説よりアジカンのほうが自分の人生におけるターニングポイントとして重要かもしれない、とすら思う。

 それだけ入れ込んでいたアジカンではあったが、大学に入学して少しすると、サークルや講義が忙しくなったこともあり、自然と遠のいてしまった。最後にライブに行ったのは2009年のNANO-MUGEN。奇しくもNANOに始まりNANOに終わるライブ趣味だ。
 あれだけ熱を上げていたのにあっけないものだと思うけれども、一因と思える出来事がある。アジカンに憧れていた高校時代の自分は、大学に入ったらアジカンのように軽音楽部に入り、バンドを組みたいと思っていた。というか、組むものなのだと思っていた。当時の自分は10代ならではの万能感にあふれていて(一方で10代ならではの憂鬱にも苛まれていて)、夢見たものはかならず実現すると思っていた。今となっては恥ずかしい妄言だけれども、音楽業界で仕事をしたいとも公言していた。
 ギターを買い練習をはじめ、大学に入り、軽音サークルの新歓コンパにも行ったけれども、とうとうそこに居場所を見つけることはできなかった。いま思えば音楽の話が通じる優しそうな先輩方もいたし、頑張ればなんとかなったのかもしれないな、と思うが、少し嫌な思いをした出来事があったのもあって、新歓コンパの途中で脱け出した。そのとき一緒に抜けてくれた同学年の人がいて、彼と「無理して馴染もうとしても仕方ないよね」とかそんな話をしたような記憶がある。もううろ覚えだけれども(とても感謝しているのだけれど、お礼を言いそびれました)。根が軽音に入るようなタイプではないのだろうな、と今は思う。
 結局軽音サークルに入ることなく、入学時に知り合った友人に誘われた文芸サークルに居つくこととなり、それはそれで自分にとって大正解だったので後悔はしていないけれども、当初の目的とは全く違う道を歩むことになったのだった。

 こうして振り返ってみると、アジカンは自分の人生を大きく輝かせてくれたと同時に、人生に大きな呪いをかけてもいったように思う。もちろんアジカンが悪いわけではなくて、思い込みが激しくすぐ他者の真似をしようとする自分の性分が100%悪いのだが。
 その呪いは「理想的なファン」であろうとする呪いであり、「理想的なファン」であることに「居場所」を求める呪いだった。 「理想的なファン」であろうとすることは、ある種アジカンと同一化しようとすることだったのだと思う。だから自分はアジカンと同じように大学でバンドを組もうと思ったし、必死こいて後藤正文と自分の考え方や感性の共通項を探し求めていたのだと思う。
 けれど、自分は自分でありアジカンアジカンだ。似通った感性はあったとしても最終的に全てが交わるわけではないし、そもそも楽しむためのファン活動において過度に理想の型に自分を当てはめようとするのは息苦しい。
 自分がアジカンから離れたのは、なんてことはない、過剰に居場所を求める行為に自分自身で疲れてしまっただけなのだ。背伸びをして洋楽ロックを聴いて、ライブの際にはマナーを過剰に気にして、自分自身がアジカンライフヒストリーを必死になぞろうとして、全ては居場所を求めるがゆえの行為だったのだろうけれども、好きなものにそれだけ必死になっていてはいつか限界が来る。楽しくなかったわけではないし、むしろその逆だけれども、なんとも言えない疎外感があった。
 軽音サークルの新歓で肩身の狭い思いをしたように、そこに、居場所はなかった。
 
 そういった(ややトラウマめいた)経緯を素直に消化し納得できるようになった今、直感に従ってアジカンのライブに来られたのは僥倖だったのかもしれない、と思う。けっきょく音楽関連の企業に就職することはなく、それどころか就職活動自体に七転八倒して、それでもなんとかやっている、というのが現状だ。良くも悪くも、現実を知ることができた。あの日の未来に居場所がないことはもう知っている。
 あの頃、このバンドを知るきっかけとなった『ソルファ』の再録。今回のライブに来ることになったのは、それがきっかけだった。懐かしいな、と軽く手を出したこのアルバムが、予想以上に良かった。成熟した、といえばいいのか、楽器に関する詳しいことはわからないけれど、より洗練され、繊細でありながら重厚な音像が印象的だった。同じ曲をほぼ同じように(アレンジは加えてあるけれども)演奏しているのに、これほどまでに違うのか、と思わされた。
 聴いたままのテンションで、武道館公演のチケットを取った。ちょうど26歳の誕生日のことだったのを覚えている。自分への誕生日プレゼントにと、本当に軽い気持ちで取ったものだった。


  武道館前の階段を上がり、二階のスタンド席へ。ステージのほぼ正面となる座席を確認してから、物販で買ったTシャツに着替えるためにトイレに向かう。開場前BGMとして流れているスピッツの話をする若い女性たちとすれ違った。結成20周年を迎えてなお、若者にも広く聴かれているのはすごいな、と素直に思う。
 着替え終わって席へと戻り、あらためて会場を見渡してみる。8年振りのライブではあるけれども、広い会場を埋め尽くすだけの人が集まっていて、どことなく懐かしさを覚えた。未だに根強い人気があることが嬉しい。会場には老若男女多様なファンが集まっていて、8年前より年齢層が広くなっている気がした。小さな子供連れの家族に、それだけの年月をこのバンドが重ねてきたということを知る。

 客電が落ち、開演する頃には、自分のアジカンに対する屈折した感情は吹っ飛んでいて、素直にライブを楽しみにする高校生の頃の気持ちに戻っていた。
 腹に響くベースの低音が、お決まりのあのフレーズを刻む。『遥か彼方』。二十周年ライブの一曲目にこの曲を持ってくるこの選曲。周りのファン同様、自分も座席を立ち、拳を突き上げる。
 バンド自体の演奏もさることながら、舞台演出がまたいい。メンバーを覆う紗幕(後に曲の途中で降りる演出が素晴らしい)、複雑な図形を描き出す照明、そしてスクリーンに映し出される映像、そういった要素が合わさり、ひとつの舞台芸術を作り出している。これもまた「成熟」といえるのだろうか。聞けば『Wonder Future』のツアーでは建築家の光嶋裕介プロデュースの舞台演出をやっていたようで、近年はその辺りには力を入れているのだろうか。
 続く『センスレス』は大好きなアルバム『ファンクラブ』の名曲であり、まさか二曲目で! と驚かされ、そして映し出される「キミガココニツクナリハイタタメイキ……」の文面に「『the start of a new season』ツアーのときの!」と思い当たり、そのツアーに行った自分はもう、泣くしかなかった。

 あったじゃん、居場所。自分が勝手に盛り上がり、勝手に離れている間も、アジカンはずっとアジカンで、居場所はあったんだ。そう思えて、過去の迷いがアホみたいに思えて、泣けるを通り越して笑えてきた。
 自分がライブに行かず離れている8年の間に、ゴッチの髪型はモッサモサになっていたし、そもそもメンバー全員なんとなく歳を取ったように感じるし、ライブには自分と同じ仕事帰りの社会人が増えたように感じるし、あとサポートメンバーとしてthe chef cooks me下村亮介がキーボードをやっていることも知らなかったので(本当に何の下調べもせず行ったのです)驚いたけれども、それでもアジカンはやっぱりアジカンだった。

 自分のようなタイミングで戻ってきた人のためのものではないか、とすら思えてしまう、過去の名曲をふんだんに取り入れつつも、今のアジカンのモードもしっかり表明するセットリスト。大好きな『夜のコール』が聴けたのも嬉しかったし、懐かしい曲をと『粉雪』を演奏してくれたのも良かった。『今を生きて』の、現状を踏まえながらもハッピーでピースフルに昇華するモードが本当に素敵で、今のアジカンももっと聴いていきたいな、と思わせられた。あと現在公開中のoasisの映画の話からの『E』。この曲には、彼らが大学時代に演奏したという『Live Forever』のギターソロが入っていることは有名だけれど、それを踏まえてのこの流れ、本当にぐっとくる。今でもロックスターになりたい、というゴッチのMCも、本当に変わらないな、と微笑ましくなる。チクショー、こっちだってロックスターになりてーよ! そして『月光』終わりは反則だ。月の光のように黄色い光が一筋舞台に差し、曲の展開に併せて複雑な幾何学模様が天井に映し出される演出も反則。

 二部のソルファ全曲再現では、もうライブで聴く機会もないと思っていた隠れた名曲たちが、今のアジカンによって存分に鳴らされる。歴代ジャケットが映し出される『ループ&ループ』に涙腺が緩み(「君と僕で絡まって繋ぐ未来」「積み上げる弱い魔法」をうたうこの曲で過去の歴史を振り返るの最高すぎませんか)、武道館で聴く『ラストシーン』は本当に最高で、ギターリフに併せた映像演出と相俟って本当に美しかった。そして『Re:Re:』のこのアレンジは本当に良い……。ラストの『海岸通り』はストリングスアレンジが抜群に冴え、歌詞と重なる朱いライトが綺麗だった。

 MCで「若いバンドみたいな『お前らかかってこい!』というノリはもう年齢的に無理だ」と笑いを取るゴッチに時間の流れを感じ、「かかってこなくていい」という言葉に優しさを垣間見る。彼もまた、歳を経て丸くなったりしたのだろうか。喋り方にも棘がなく、暖かさを感じるようになった気がする。楽しみ方は皆の自由だ、というスタンスは変わっていないけれども、なんというか、自分のようなファンのことも許容する懐の広さのようなものがあって、それが前述の「居場所」の話にも繋がって、自分が肯定されたようで、また泣けてしまった。

 アンコールではゴッチの弾き語り二曲(『転がる岩~』は元から大好きだったのだけれど、『Wonder future』がメチャクチャ良くて大好きになってしまった。この曲、無性に切ない)からキタケンボーカル二曲というファンサービス(?)めいた一幕。『タイムトラベラー』は初めて聴いたが、優しい歌声がよく合う鮮やかな曲だ。
 最後の二曲ではスマホによる写真撮影が許可され(これも最近のライブで恒例になっているらしい)、自分も何枚か撮らせてもらったのだが、スマホを出してもいい曲であることを利用し、スマホのライトを点けてサイリウムのように振っている人が多く、客席に星が輝くような光景に少し感動してしまった。誰から言い出すともなくこういった光景が見られるライブは素敵だな、と思う。ストリングス入りの『さよなら~』も『新世紀~』も最高だった。この二曲、どちらも『マジックディスク』収録だけれども、歌詞が本当に沁みる。「いまこの時代に生きている僕ら」のために書かれた曲だと思うし、だからこそ普遍的に響くのだと思う。

 三時間にわたるライブを終え、武道館を出たとき、心の中は興奮と感動で一杯だったし、なにより「居場所はここにあった」と思えるライブだった。時間が流れた分、自分自身も変わったし、アジカンも変わったけれど、それでもここに帰る場所があったんだな、と思えてしまうほどに。
 一生懸命すぎて、周りが見えなくて、自分で自分に呪いをかけて、沢山遠回りをしてきたけれども、アジカンのロックンロールは再び自分の許へと届いた。紆余曲折を経てきたのはおそらく自分だけじゃなく、他のファンだってそうかもしれないし、アジカンだってきっとそうだろう(後に『マジックディスク』期の葛藤を知り、改めて二十年続けてくれたことに感謝したくなった)。帰ってきた、と思えるようになったのは、その回り道を経たがゆえだろうし、そう思うと、このタイミングで二十周年ライブを観ることができたのは、ある種運命的だったと言えるのかもしれない。
 演奏自体もとても良いものだったけれども、自分の過去の葛藤に決着をつけられた、という意味でも良いライブだった。なにかひとつ自分の軸になるものが欲しくて、傍から見ると恥ずかしいほどに必死になってアジカンを追いかけて失敗し続けた10代の自分が、なんとなく救われたような気分にもなった。フラットに聴けるようになった20代の自分のお蔭なのだろうか。そういうことを考えていること自体、面倒臭いファンであることの証左なのかもしれないけれども。

 ともかく、アジカン二十周年、本当におめでとうございます。いろいろと聴いてきて、いろいろと好きなものは増えたけれど、ここまで好きになれるバンドは、後にも先にもアジカンだけです。
 そして願わくば、これからも共に!

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【一部】
遥か彼方
センスレス
アンダースタンド
アフターダーク
夜のコール
粉雪
マーチングバン
踵で愛を打ち鳴らせ
今を生きて
君という花
E
スタンダード
ブラッドサーキュレーター
月光
【二部】
振動覚
リライト
ループ&ループ
君の街まで
マイワールド
夜の向こう
ラストシーン
サイレン
Re:Re:
24時
真夜中と真昼の夢
海岸通り
【EN】
転がる岩、君に朝が降る(弾き語り)
Wonder Future(弾き語り)
タイムトラベラー
嘘とワンダーランド
さよならロストジェネレイション
新世紀のラブソング

2017.4 他の方のレポートやドキュメンタリーブックを下敷きに、事実関係と文の乱れている個所を訂正。勢い余って途中からゴッチ呼びになっているのは面白いので残しておきます。