幻想俯瞰飛行

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原作ファンがドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第六話・第七話を観ました

 こんばんは。相変わらずノロノロ更新のドラマ感想ブログと化しています。
 ドラマといえば、今期は『火村英生の推理』以外にもいろいろ観ております。普段あまりドラマをリアルタイムで観ない人間なのですが、何の因果か昨年末からテレビの前に居座る時間が長くなってしまいました。やっぱりサスペンス・推理モノが多いのですが、演出の違い等較べてみると面白いです。ドラマといえば『シャーロック』の映画を観に行くためにドラマ版3シーズン一気見とかもしました。映画面白かったですね!

 というわけで『火村英生の推理』感想です。相変わらずドラマと原作のネタバレに触れております。今回は前後編なので、二話まとめて。引用の範疇で画像も掲載しつつ感想を追っていきます。


☆6話『朱色の研究(前編)』・7話『朱色の研究(後編)』

 原作は角川書店『朱色の研究』より。

朱色の研究 (角川文庫)

朱色の研究 (角川文庫)


 前の記事で朱色の研究好きと書きましたが、そんな自分が唸らされるとても良い回でした。
 褒めたい部分は沢山あるのですが、延々書き連ねているときりがないので困ります。


 まず、今回のドラマが原作をどう編集したのかという点について、二つのことが言えると思います。
『朱色の研究』を貴島朱美の(成長)物語として再構成した
作品を「夜明け前の殺人」「黄昏岬殺人事件」「真夜中の放火犯」の三つの要素に分け、その相関で物語を進めた


 前者に関して。原作『朱色の研究』におけるキーパーソンであり、事件解決の重要な手がかりを握る朱美をフィーチャーすること自体はある種当然の話なんですが、ドラマ版では彼女をシリーズ通してのレギュラーキャラクターに据えたこともあり、より彼女のパーソナルな部分の話として構成されているように感じます。
 この采配、原作の時点で彼女が好きな自分としては単純に嬉しかったということもありますが、物語自体に一本の確固たる軸を付与すること、また「自分自身の過去のために探偵行為を行う火村が、その過程で(意図的かどうかは置いておいて)救うことのできた人間」にスポットを当てること、そういった面で非常に興味深い選択であったと感じます。後者に関して、ドラマ版の火村は内面の葛藤に注力して描かれているため、より重要性が高くなったのではないでしょうか。

 この物語の中で、貴島朱美という人間に与えられた役割は「トラウマの克服と成長」という精神分析的主題でしょう。過去に遭遇した事件から、夕焼けのオレンジ色に共感覚的な恐怖症を持つ朱美が、事件を経て自身の見たものと向き合い、それが事件の解決に繋がっていく――というのが、原作での切ないながらも前向きなラストシーンに繋がっていく一本のストーリーラインとなります。
 ドラマでは、前フリとして各話で朱美の日常生活とそこに見え隠れするトラウマの片鱗が少しずつ描かれていく構成で、視聴者に関心・感情移入を促す色合いが強くなっていたように思います。ちなみに、ドラマ一話の時点で夕暮れのシーンにはオーバーレイのようにして炎が燃え盛る様子が重ねられており、原作を知らずともじっくりと見ていれば朱美のトラウマの正体にはある程度推測できるようになっています。

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©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』一話より

 原作では、この「トラウマの克服と成長」は、朱美が事件の調査を依頼した火村に自身の悪夢について打ち明け、その悪夢を現実の反映と考える火村の推理によって犯人の前に真相が明らかにされる構造です。物語後半、火村が自身もたびたび悪夢に悩まされること、そしてその内容が殺人を犯す夢であることを明かし、朱美からの告白を引き出すシーンは、印象的に感じる方も多かったのではないでしょうか。
しかし、ドラマでは悪夢の話は比較的早い段階でなされ、事件解決の場面に至り、火村は関係者の前で敢えて朱美の悪夢を組み込んだ推理を披露し、関係者たちに否定させることで、逆説的に朱美から悪夢が現実の反映であるという自認を引き出すという戦略をとります。
 荒唐無稽なやり口に見えますが、ドラマ版が「貴島朱美のトラウマの克服と成長」に的を絞って構造を練るなら、より確固たる手法で朱美に過去からの逃避を克服させる必要があったのでしょう。作中で火村と有栖川が「カウンセラー」という比喩を用いていましたが、受け入れがたい過去を自ら認めるように差し向ける、という手法はより精神分析的であるように思えます。
 朱美の成長、という観点から言うと、物語ラストシーンの会話の差異も印象的です。

「どうしてみんな、夕陽がきれいだと言うんでしょう。暗い夜がくる前触れなのに」
 朱美は眩しくてならないというように目を細めながらも、顔をそむけない。
「夕陽は没落の象徴でもあるし、確かに闇の前触れでもあるけれど、それだけでもない」火村は言う。「生まれ変わるために沈むんだから」
 朱美の唇が動く。
 ――生まれ変わるために沈む。
 私は、何かで読んだことを思い出した。
「ねぇ、貴島さん。火星行きのロケットに乗れるようになったら、みんなで出かけませんか? あそこでは、夕焼けは青いんだそうですよ」
有栖川有栖『朱色の研究』文庫版p403)

「貴島君。私は有栖川にカウンセラー失格の烙印を押されたが、聞いてくれるか?
君のオレンジ恐怖症は、実体験の恐怖と、それに対して自分を責める罪の意識が根底にあった。だが今回、君はそれを受け入れることができた。
事件が解決したからって、君の抱えている全てが解決したとは思わない。でも、あの太陽が沈めばまた新しい一日がやってくる。
君にとって、新しい一日が」
「私もいつか、夕陽をきれいだって思える日がきますよね」
(ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第七話)


 自分自身気付かなかった部分ではあるんですが、原作での青い夕焼けのくだりが使われなかった理由について、「ドラマ版の朱美は今まさにトラウマである朱い夕焼けと向かい合おうとしているからではないか?」という感想をおっしゃっている方がいて、ハッと気づかされました。
 原作のラストは「これから過去と向き合っていくための第一歩」のような、朱美が向き合うべき今後の長い道のりを想定させる余韻を残すラストであり、一作完結の長編小説として効果的に演出されていますが、ドラマのラストでの朱美は自分のトラウマとしっかり向き合い、涙を流しながらも立ち向かっていくフェイズにまできているんですよね。
 連ドラという媒体ならではの良い独自演出だな、と思います。ここ、台詞を突き合わせて読んでみると、火村の台詞なんかは原作とドラマで同じ意図を示しているのがわかりますし(ドラマは判りやすく説明的ですね)、それに較べて朱美の受け止め方はだいぶ異なるようにとれます。先の話になりますが、8話での朱美の行動を考えると、この話で彼女は過去を受け入れ成長した、と見せたいのがよくわかると思います。


 後者の三要素について。
 漫画版では「夕陽丘殺人事件」「枯木灘殺人事件」と銘打たれて前後編になっていたように記憶していますが、この作品を評するとき大体の人は「過去と現在の二つの事件が相関して……」という説明をすると思いますし、そういう構造として捉えるものでしょう。
 ドラマ版では前述のとおり朱美を主軸に話を進めるに伴って、朱美のトラウマの一因となった放火事件をクローズアップし、三つの謎として火村・有栖川と対峙させるようになっています。「夜明け前の殺人」「黄昏岬殺人事件」「真夜中の放火犯」というネーミングからわかるように、これらは全て時間軸に紐点けされています。日が落ち夜が訪れやがて夜明けを迎える、というのは、「落陽の後には新しい日がやってくる」というラストシーンの台詞にもかけられているのでしょう。
 また、そもそもこの『朱色の研究』という作品自体が、過去と現在の事件が絡み合う、時間軸を意識した作品であることにも留意したいです。ドラマ版ではより強く「過去と現在が入り混じる」イメージが用いられていたと思います(鍋島と緒方のエピソードなんかもそうですね。過去の無念を現在で晴らす、というリンク。また、このくだりは「探偵は死者の声を聴く」という原作での言及も意識したものではないかと思います)。
 三つの場面が目まぐるしく入れ替わる推理シーンなどは、その最たるものでしょう。このシーンは自分の周りでも好評でした。元ネタを探そうと思えば探せる演出かもしれませんが、要素の組み合わせと意味づけによって非常に独自性の高い演出に仕上がっていたと思うので、その辺に言及しておきます。

 推理披露シーンでは、登場人物を残したまま三つの場面が次々に転換していくつくりです。
 まずは、現実に関係者たちが存在するであろう別荘の一室。

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©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』七話より

 次に、事件の再現シーンで使われる黄昏岬。

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©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』七話より

 事件を再現するための演出であると同時に、朱美が囚われた過去の象徴でもあります。


 最後に、火村が関係者たちに解説するときに使われる教室。

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©Nippon Television Network Corporation
『臨床犯罪学者 火村英生の推理』七話より

 黄昏岬のシーンが朱美の領域だとするとこっちは火村の領域。
 「犯人からの挑戦に応える探偵」という構図で進めるにあたっての演出でしょうか。
 スクリーンに映し出された火事の光景が火村の姿に重なるカットが印象的です。原作でもそうですが、朱美と火村はネーミングからも判るとおり物語構造上対になる存在であり、似た要素を持つ登場人物です(ドラマ版はさらに対比構造が多いですが)。そのへんを意識してるのかな。

 この三者のシーンが目まぐるしく入れ替わることで、過去の事件が現在の事件に浸食してくる構造、また朱美の夢は果たして現実なのか、というくだりの不安定感が巧く描かれています。ただこの演出をやりたかっただけじゃなく、しっかり物語上意味のある根拠のもと使われている、ということでしょう。美術系の人と観てたら「これシュールレアリスムっぽい表現だね」とおっしゃっていて、夢と現実が混濁する感じかなるほどなと。
 多分演出だけだったらこういうやり方をするドラマはいくつもあるのだろうけど、このドラマは割と指針が明白な気がします。モーションタイポグラフィも「本格ミステリドラマをやる上での視聴者への適切な情報開示」の意味合いが強いですね。それ系の演出だと『シャーロック』が引き合いに出されがちなんですけど、あれは主人公であるシャーロックの見ている場面を再現するための演出、という色合いが強いので、意図が違うよね(そういう意味で『シャーロック』っぽいのが今期の『スペシャリスト』ですね。あれも宅間の見ている光景を視聴者に提示する意味合いが強いと思う。火村と関係ないけどおもしろいです)。このドラマと意味合いが近いのは日テレ繋がりになるけど『ST』あたりかな?


 原作でも『朱色の研究』は火村英生という人物造形の核に迫る話ではありましたが、ドラマでもクライマックスに向けて布石を打ってきている感じがしました。例えば小野との犯罪談義。

「コマチさんも、一度目の撲殺が衝動的ならば共感できるでしょう。
できないというならそれは嘘だ。
人間誰しも一瞬の怒りや憎しみ、つまり殺意の種を持っている。それ自体は犯罪ではない。
現に、憎しみをもって藁人形を打ったところで、法では裁けない」
「肯定はしません。だが、殺意を持つこと自体は否定しない。だからこそ、私は実際に殺意を行動に移す人間を許さない」
(ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第七話)

 この火村の台詞自体は至極妥当で、内心は法で裁けないという当たり前の話をしているんですが(内心が裁けてしまうとディストピアSFになるんですよ)、恐らく『46番目の密室』冒頭シーンと同様の意図があると思われます。火村シリーズ自体の「人は誰でも犯罪者になりうる」「犯罪者は特殊な存在でなく、我々と同様の人間」というテーゼの象徴ですね。後の平泉成(すいません役名忘れました)の台詞からも、火村のそのへんの掘り下げがされていてよかったです。刑事ドラマにおける「犯人を追う刑事は犯人と同様の思考をすることが必要」メソッド好きなんですよね……。

「確かに、あんたの言うように、彼の眼の奥には冷たい冷たい光があった。犯罪者と同じような。
しかし、その狂気みたいなもんは、犯人を必死に追いかけるもんにも宿る。
今の鍋島君やあの日の緒方君、そしてあんたの眼にもある。わしはそれを執念と呼んどる」
(ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』第七話)

 火村の犯罪捜査にかける情熱を「執念」と評してくれたのは本当に原作ファンとして褒めたたえたい。
 ただテレビドラマという体裁上、殺意を安易に肯定するわけにもいかないですし(笑)、また原作を知らない視聴者へのわかりやすいスタンスの説明になっているのかもしれませんね。あと、小野と火村の立ち位置の違い、考え方の違いは一話から出ていましたが(一話感想でも46番目の密室の話をした気が……)、ここに来て明白化する意味もあったと思います。規範的・倫理的に正しくあろうとする小野と、内心がどうであれ実際の行動を重視する火村の差。
 詳しく言うと原作のネタバレになるので控えますが、最終回へのブラフの意味もありそうです。制作陣としては、火村を「あちら側」に行きそうな存在に見せたいのですから(そして、それをどう裏切るかが最終話の楽しみなんだよな……)。

 前の記事で、ドラマ版火村の「犯罪者は憎むが犯罪を愛する」設定が明瞭でなく指針が見えにくい、という話をしました。しかし、ドラマを追っていて気付いたんですけど、おそらく「この犯罪は美しくない」という台詞自体がブラフというか、「火村が何故そんなことを口にするのか?」という謎として制作側が視聴者に提示したかったものではないか、と。9話予告ではっきり「美しい犯罪などない」と言い切っているあたり、この台詞って「全ての犯罪は美しくなどないものを確認する」ためのものなのではないか、と思えてくるんですよね。
 ドラマから観た人は純粋に「美しい犯罪とはなんだろう」と考えますし、原作を知っている人は「火村が犯罪に対して美しいという視点を持つのか?」と考えるでしょう。おそらくその反応すら想定済みで、「じゃあなぜ火村がこんなセリフを口にするのか、お前たちが当ててみろ」と言われていたのではないでしょうか。……という「キメ台詞ミステリ説」を提唱しつつ、次の話を楽しみにしたいです。


 「夕景モチーフなだけあって各シーンのライティングにものすごい気を遣ってる」とか「香水のくだりは6話ブラフかつ7話真犯人に繋がる要素だし双頭の悪魔リスペクトだしめっちゃ細かいとこ仕込んでくるな」とか他にも言いたいことがめっちゃありますが、この辺にしておきます。
 本当は動機の話にも触れたいんだけど、『朱色の研究』の動機の話はそれだけで記事一つ埋まるから……個人的には、原作のアレは「1995年的なモノ(阪神淡路大震災地下鉄サリン事件、終末論・オカルトブーム)へのミステリ的回答」だと思っているので、そういった説明が難しく時代性もあるマクロの部分よりミクロの人間関係だけに絞ってクリンナップしたのはよかったな、と。今2016年だしな……。
 今度、原作の『朱色の研究』に関する記事も書きたいと思います。大澤真幸を読まざるを得ない。